今号の『表現者』は、「若き保守論客が語る「戦争」!」です。
大座談会では、総勢十名による論客が語り合っています。正直、「若き保守論客」とうたっているわけですから、西部邁氏は司会進行に徹するか、若手だけの座談会にすべきだったと思います。発言量に、かなりの個人差があるように感じられました。
座談会で気になった点として、過去の日本に対する評価が挙げられます。例えば、佐藤健志氏は〈当時の人々には申し訳ありませんが、いかんせん真似の仕方が下手だった〉と述べ、宮里立士氏は〈それが日本の甘さではありますが・・・・・・〉と述べ、中島岳志氏は〈保守派はそう簡単に明治維新を礼賛するわけにはいかない〉と述べています。これらの言説には違和感を覚えました。だって後の世代が、当時を懸命に生きた人たちを後付の知識で批評することには不道徳の雰囲気が漂うじゃないですか。
もちろん、批判せざるをえない水準はあると思いますが、明治維新にしろ大東亜戦争にしろ、あれだけの事態とその結果を、一体誰が非難できるのだという思いはあります。ましてや、現代日本人が、このなまっちょろい言論空間で批判するってのは、ちょっと嫌だなという思いはあります。
具体的に中島氏の意見について述べるなら、保守主義の漸進主義の原則を単純に演繹して意見を言っているようにしか思えないわけです。そりゃイギリスのように、(夏目漱石が『現代日本の開化』で言っている)内発的な場合は、急進主義と漸進主義を選べるから良いですよ。でも日本の場合は、外発的であり、急進的な変化を起こさなければ西洋の植民地にさせられてしまうような状況だったわけですよ。それゆえ、急進的に物事を進めざるをえなかったわけで、それによる弊害も簡単に指摘できます。ですが、それを非難するなら、漸進主義で日本がうまく行ったケースくらい提示してほしいですね。明治維新には、漸進主義ではなく急進主義を選ばざるを得なかったという悲劇的側面があるわけです。その点を認識していれば、保守は漸進主義だからそれに反しているからダメ~という意見には、幼稚さが見えてしまうのです。
逆に好感を持った意見としては、中野剛志氏の〈やむをえない運動の中に置かれたら、個人の主体なんかでは政治家の責任なんか問えない状況になるということです〉という意見や、柴山桂太氏の〈日本の悲劇は、グローバル・スタンダードに合わせようとしすぎた、あるいは合わせざるをえなかった点にあると思う〉という意見です。これらの意見については、その通りだと思います。
特に、当時はグローバル・スタンダードに合わせるということが、文字通りに死活問題だったわけです。それに比べ、現在のTPPなど、まったくもって合わせる必要のない問題なわけです。明治維新や大東亜戦争などと比べると、今のTPP問題など比べものにならない程に楽な問題なはずなんですよ。それを、むしろ嬉々として参加しようとしているのですから、嫌になってしまいますよね。
以下、個別の論文についてコメントしてみます。
<大東亜戦争は全体主義の勝利に終わった>三浦小太郎
三浦氏は、〈完全武装した中国警察・軍人に対し、ナイフや火炎瓶程度の武器しか持たないウイグル人が立ち向かったことを私は暴動とは言わない。これはレジスタンスだ〉と述べ、〈中国政府のやりかたこそ、「恐怖(テラー)」で民衆を弾圧し支配するテロリズム国家の本質である〉と語っています。ただただ、その通りだと思います。
<大東亜戦争を肯定できるか>富岡幸一郎
富岡氏は、〈史実も理屈もいらない。考え方などどうでもよい。「真剣に考え」れば、大東亜戦争はまず肯定しなければならない。そこから議論をはじめたいと思っている〉と述べています。正直、私には理解できませんでした。「不条理なるが故に我信ず (credo quia absurdum) 」ということなのでしょか? 分かりません・・・。
<大東亜戦争と日本の宿命>佐伯啓思
佐伯氏は、〈私には、大東亜戦争へいたる道程とその敗北は、ほとんど予定されていたかのように見えてしまう。それは、大東亜戦争は、近代日本の宿命的矛盾のほとんど必然的な帰結であり、ここに運命などという言葉は使いたくはないものの、ほとんど歴史の「運命のごときもの」とさえ見えるのである〉と述べています。
本号を通して、もっとも共感できたのがこの考え方です。私も「運命」という言葉は使いたくないのですが、大東亜戦争については、その運命の香りが漂っているように感じられてしまうのです。
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