『経済学の教養(NTT出版)』根井雅弘

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 『経済学の教養』とは、これまたすごい題名ですねぇ。
 本書で示されている意見について、気になったところにコメントしてみます。

<p.22>
 わが国では、ときに、経済学が輸入学問から始まったことに引け目を感じて、一日も早く自国の風土に根ざした「日本経済学」を構想すべきであるというような主張に魅力を感じる向きがありますが、「マルクスの基本定理」も「有効需要の原理」も、人類の知的遺産であり、ことさら自国の「伝統」なるものにこだわる必要はないのではないでしょうか。

→この見解については、「ことさら」という言葉の意味にもよりますが、その通りだと思います。もちろん、「制度」や「歴史」や「慣習」において、自国の「伝統」が重要になるような場合も多々あると思います。その側面もありますが、人類の知的遺産として利用可能な考え方もあるわけですね。
 ものすごく当たり前のことを言えば、人類レベルで共有できる知識があり、その上で各国の歴史性に合った経済のあり方がありえるということなのでしょう。

 

<p.104>
 ポスト・ケインズ派の文献は、私もたくさん読みましたが、いまから回顧すれば、彼らはケインズの側近であったために、あまりにケインズの言説のあれこれに引きずられすぎたのではないかという印象を受けます。自分たちだけがケインズを正確に理解しているという誇りは立派なものですが、それ以外のものをすべて排除するような「非寛容性」は、彼らの経済学を次第に袋小路に追い込んでいったのではないでしょうか。

<p.105>
 「本流」と「周辺」、あるいは「正統派」と「異端派」を問わず、学問はできるだけ広く学ぶべきことも同時に強調しておきたいと思います。

→ポスト・ケインズ派についてのこの考え方についても、その通りだと思います。エコノミクスとしての経済学の歴史において、ケインジアンを名乗ることの意義について、いろいろな経済学者がかなり無駄な議論を展開しているように思えるのです。
 私からすると、ケインズの言っていることで、参考にすべきは参考にし、間違っていると思うところは受け入れなければ良いだけだとしか思えないのですよね。
 例えば、「価格の硬直性」とか「有効需要の原理」とか「不確実性」とか「流動性選好」とか、それぞれに論じるべきことを論じれば良いとしか思えないのですよね。そこで、ケインズ的か否かとか、ケインズ革命の本質とは何かとか、どうでも良いような気がするのですよね。

 

<p.171>
 まだ故田中真晴氏が元気でよく研究会で顔を合わせていた頃、「年寄りのひがみと思ってもらってもよいが、あなたはものを知りすぎているのではないか。昔は、ミル研究ならミルばかり明けても暮れても読んでいた研究者がいたものだ。そういう愚直さもわからないといけない」という趣旨のことを言われたことがありました。

<p.171~172>
 私は、研究者は、自分の本領があったとしても、できるだけ多様な経済思想を学び、自分がまだまだ「無知」であることを実感すべきだと思っています。そうすることによってしか、異なる思想に対する「寛容」の精神は身につかないという堅い信念をもっています。

→これについても、著者の根井氏に賛成です。
 というか、ミルばっかり読んでいる人って、ゾッとしますね。ある意見の妥当性とは、有名人の意見だからとかではなく、反対意見との格闘を通じて研磨すべきものだと思うからです。

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