『市場主義のたそがれ(中公新書)』根井雅弘

| コメント(1)

 本書では、新自由主義の問題点が分かりやすく語られています。
 次のような著者の見解は非常に重要だと思いますし、共感できます。

 

<p.ii>
 私は、かつてのポール・A・サムエルソンの「新古典派総合」(名称にはこだわらない)のように、市場メカニズムと政府の経済管理のあいだの絶妙なるバランスを試行錯誤で模索する以外にないと思っている。

<p.123>
 経済学の考え方は唯一無二のものではなく、多様であるからこそ価値がある。そして、それが、私の持論でもある。

 

 他にも、現代の資本主義を「混合経済」として捉える視点などは重要だと思われます。

 違和感を覚えた部分としては、フリードマンのマネタリズム批判において、カルドアの内生説が紹介されているところです。内生説は重要だと思いますが、カルドアのそれには少なくない問題点があると思われます。そこの掘り下げが不十分な気がしました。まあ、新自由主義批判という本書の性質上、仕方のないところではありますが・・・。
 例えば、カルドアの〈貨幣ストックが需要によって決定され、また利子率が中央銀行によって決定されるという事実を変更するものではない(p.68~69)〉という意見には落とし穴が潜んでいると思われます。マネー・サプライについて、〈ミンスキーは、減らそうと思っても減らせないという観点から内生説を主張する(p.173)〉と紹介されています。しかし、ミンスキーとカルドアには、それだけではない相違点があると思います。
 渡辺良夫氏の「内生的貨幣供給と流動性選好」という論文では、〈ミンスキーによれば、貨幣供給が内生的となるか外生的となるかは経済的・制度的な条件に依存し、典型的には貨幣供給の一部分は内生的であり、また一部分は外生的となる〉と紹介されています。この見方が正しいのだと思われます。「外生説」には問題がありますが、それを否定してカルドアのような意味で「内生説」を主張する(Horizontalist Approach)のも間違っていると思われます。なぜなら、貨幣供給が完全に内生的であると仮定すれば、貨幣の流通速度は一定不変になってしまうからです。
 中央銀行は短期利子率に対して一定の裁量範囲を持ってはいますが、準備需要増大を常にすべて充足するとはかぎりません。そのため、貨幣には外生性も内生性もあるという簡単な話になります。
 ちなみに、貨幣には内生性があると言っておくと、ピグー効果がなりたたない可能性を指摘できるようになります。

コメント(1)

確かにアコデモート派は厳密すぎる内生説ですね。中銀の完全同調などありえないでしょうし。アコデモート派への批判から構造派も出てきていますね。

外生的な貨幣供給について、どのような場合を想定されておられますか?

コメントする