『震災ゴジラ 戦後は破局へと回帰する(VNC)』佐藤健志

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 面白いか面白くないかで言ったら、たいへん面白かったです。『ゴジラVSキングギドラ』の登場人物である新藤靖明の人生や、小松左京『地には平和を』の登場人物である河野康夫の考えなどは、素直に参考になりました。
 ただ、本書は一見して論理的に議論が進められているように感じられるかもしれませんが、ところどころに佐藤氏に特有な論理の飛躍が見られます。
 例えば、『時計じかけのオレンジ』について、〈あまつさえアレックスの年齢は、原作の記述によれば十五歳とくる。日本占領に際して連合国軍の総司令官を務めたマッカーサー元帥が、日本人を「(十二歳の)少年」になぞらえたことも、こうなると意味深長と評しえよう。第二次大戦におけるわが国は、まさしく「不良少年」だったのである(p.217)〉とあります。『時計じかけのオレンジ』の中には日本軍の蛮行が誇張された形で出て来ますが、これはさすがにこじつけが過ぎるでしょう。
 他にも、第七章の「『崖の上のポニョ』の真実」では、『もののけ姫』・『千と千尋の神隠し』・『ハウルの動く城』の三作品について、〈どの作品でも、主人公は自分を苦しめる年長者と対決するどころか、彼らの責任を追及しようとさえせずに、どうにか自力で呪いを解こうと努める。この点を踏まえるとき、映画の(ひそかな)メッセージは「上の世代に何をされても恨むな」だと言わざるをえない(p.237)〉と述べられています。少なくとも『もののけ姫』のアシタカは、エボシに文句を言っていたような・・・。まあ、でも、『崖の上のポニョ』についての考察は深かったですし、ためになりました。
 本書で最も問題な点は、佐藤氏の大東亜戦争についての認識です。その認識については、私には違和感が拭えませんでした。
 佐藤氏は、〈本土決戦を遂行していれば、先の戦争をめぐって、日本は「国としての筋」を通せたに違いない。だとしても、本土決戦の発想自体は、欺瞞的な「死に急ぎ」だったのである(p.63)〉と言います。まず、ここの論理がよく分かりませんでした。筋を通せたことが、なぜに欺瞞的なのか? ここの謎は、本書を読み進めていくうちに明らかになっていきました。
 佐藤氏の歴史観が決定的に示されているのは、〈現在、回復されるべき「ごく当たり前な常識」とは、「祖国を守るべく命を捨てるのは立派な行為」などではなく、「主体性なきところには、犬死と変節あるのみ(=人々のアイデンティティが形骸化した社会では、命を犠牲にしたところで本質的なものは何も守れない)」だと言える(p.153)〉という文章です。つまり、〈たとえば昭和前半期の日本の行動は、欧米の植民地支配からアジアを解放しようとした点では「善」ながら、自滅的な敗北にゆきついた点では「悪」(少なくとも「愚劣」)であった。まして大量破壊兵器が世界的に拡散した現在、戦争の是非をめぐる選択の自由を個々の国家に与えつづけるのは、下手をすれば世界全体の命運をもおびやかす(p.219)〉という歴史観なのです。
 まず、昭和前半期の日本の行動を、大量破壊兵器拡散後の世界の命運と結び付けている点がまったく意味不明です。さらに、主体性という言葉の用法も意味不明です。主体性とは、仮に一国の運命が無謀へと突き進んだとしても、その中であがく個人の行為の中に見出されるものだからです。
 佐藤氏が、〈そんな戦いに突入したこと自体、社会の中核をなす大人世代が、自分たちの「良い未来」を相対化する視点を持ちえなかった表れではないだろうか(p.234)〉と述べていることから分かることが一つあります。それは、佐藤氏の言動が、小林よしのり氏の言う「蛸壺史観」以外の何者でもないのではないかということです。主体性がないから出て来る史観なんじゃねえのかと、皮肉の一つも言いたくなります。
 さらに佐藤氏は、〈現在の日本は、「生まれてきてよかった」ことと「生まれてきても良いことはない」ことがイコールになってしまう国だと言える。そんな国にわざわざ生まれてくる価値があるか、これはきわめて重大な問題であろう。もし答えが「否」なら、われわれには良いものであれ悪いものであれ、未来が存在しないことになるのだ(p.247)〉などと言っています。インテリ風情が、自分の言葉におぼれて発した感が丸出しだと感じられました。揚げ足を取れば、答えが「否」だからこそ、われわれには未来が間違いなく存在するのだ、とも言えるからです。
 私は、私に賛同してくれる仲間がいないことを承知の上で、<自滅的な敗北にゆきついた点では「悪」(少なくとも「愚劣」)>と見なす考え方とは、端的に敵対することにします。そういった観点を明確に指し示すといった意味でも、本書はある意味で面白かったです。

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