『表現者52』

| コメント(0)

 今号の特集は、「国家を守る外交と内政 価値観外交と道州制の罠」です。
 気になった論文にコメントしてみます。

【鳥兜(p.009)】
 世界史は「もはや、これまで」なのではないか。ストーリー(物語)としてのヒストリー(歴史)は終わったのである。

→今現在の世界情勢は、善悪の区別はともかく、かなり破天荒で面白い事態だと思います。各国の思惑が入り乱れて、まだまだ人間世界は、物語としての歴史が紡がれていくことでしょう。残念ながら(?)、まだまだ人類史は終わっていないのです。

 

【榊原英資の日本改造論 道州制は実現不可能(p.010)】
 一八七一年(明治四年)に実施された「廃藩置県」を逆転して、「廃県置藩」をするのはある種の「夢」があるし、又、歴史の重みを反映した動きになりうるだろう。

→面白いですね。現実的には難しいでしょうし、実際に行われるとしたら道州制推進派が隠れ蓑として利用する可能性もあるので注意が必要ですね。しかし、このような想像を働かせることは興味深いです。

 

【価値観外交の基本にあるべきもの 三浦小太郎(p.015)】
 もし民主主義が真に世界の普遍的なものになるためには、それは優れた文学が人の心を打つ時のように、あらゆる政治制度からも、又大衆のルサンチマンからも、正義を振りかざすジャーナリストからも限りなく遠い所にある、人間精神の根源の自由と運命への愛を基底にする時だけだろう。

→う~ん。このような人間精神の根源の自由と運命への愛を基底にした民主主義が出現したら、私は全力で敵対しますね。ここの表現は、さすがに酷いと思います。

 

【「鎖国」論の見直しと歴史認識の相対化 船戸雅也(p.132】

→面白かったです。

 

【誤解された思想家たち ルネ・デカルト 小浜逸郎(p.152)】
 最後に、最も重要な「われ思う、ゆえにわれあり」を問題にしてみます。
(中略)
 というのは、感覚はしばしば過ちを犯すからである。しかし、私が現にそのように疑っている、という事実だけは否定することができない。だからこの疑っているという思考作用(コギト)こそは私が存在していることの唯一の根拠である・・・。
 この「証明」なるものにはいくつもの問題点が含まれています。
(中略)
 そもそも夢と現実との違いは、前者が必ず覚めるものであるのに対し、後者はけっして覚めないという点にしか求められません(幻影と現実との違いも同じ)。
(中略)
 しかし「疑っている」と思っていたらじつはそれが夢の中の作用であったとすれば、その「疑っている」は「私」の存在証明にはならないわけです。なぜなら、「ああ、夢だったか」という感懐は、このふだんの日常世界こそが真実だという確信の場所に呼び戻されたことを意味するからです。

↓↓↓

( ゚д゚)

 (つд⊂)ゴシゴシ

(;゚д゚)

 え~~~っと(汗)
 私が頭が悪いからなのか、まったく理解不能です・・・。
 何を言っているのでしょうか・・・?
 (p.152の論理はある意味で凄まじいです)

 

<備考>
 現実は、〈決して覚めない〉という点に求められるものではなく、「今のところ覚めていない」という点にしか求められません。また、「夢と現実」の関係は、「幻影と現実」の関係とは微妙に異なった次元にあります。こういった差異について、小浜氏はあまりに鈍感だと言わざるをえません。
 〈存在証明にはならないわけ〉については、仮に分かる人がいるなら是非教えてください。私には、デカルトが真剣に向き合わざるをえなかった深刻な問題意識について、小浜氏は欠片も理解できていないとしか思えません。
 もの凄い単純化して述べるなら、「意識の直接的所与がもつ確実性」が、「(夢とは区別される)日常世界の確信」によって覆されるのはおかしい、ということです。

 

コメントする