今号の特集は、「ITで人は幸せになったのか」です。
気になった論文にコメントしてみます。
【「学問とは連れ合いの看病のこと」なのか 西部邁】
人生経験の重みを感じることができる論文です。
今の私では、決して書くことができない重みがあります。圧巻です。
【座談会 大衆=情報化社会の虚を暴く】
<p.025>
もう一つは日本語の問題ですが、「大衆」という言葉が、マルクス主義の影響もあって良い意味で使われている。
→ ここには注意が必要かと思われます。
「大衆」という言葉は、多くの僧の意味です。平安中期以後は、僧兵を大衆と称することもあったようです。つまり、「大衆」という言葉は、日本の歴史において、日本語として良い意味で使われていたわけです。
ここには、保守派の唱える大衆論に、(参照すべき点が多々ありながらも)易々と与するわけにはいかない理由があるように思われるのです。
【幻想としての情報化社会 東谷暁】
この論文も、人生経験の重みを感じさせてくれます。
【私の保守思想 死のトポス 中島岳志】
<p.154>
デカルトは「我思う、故に我あり」と言いました。彼は、あらゆる存在を疑った末、「今自分が何かを疑っているということだけは疑えない」と考え、「思う」という行為によって、「我」が「ある」ことを証明できると考えました。
しかし、死は「思う」こと自体を消滅させます。「我思う、故に我あり」という認識に立つと、「思わない我」は存在しないことになります。そうすると、私という主体は霧散霧消し、「我なし」という状態に突入することになります。
↓↓↓
( ゚д゚)
(つд⊂)ゴシゴシ
(;゚д゚)
え~~~っと(汗)
デカルトが何を問題としていたのかがポイントになります。
「我思う、故に我あり」という視点(「世界」でも「パースペクティブ」でも良いですが)に立つなら、そもそも「我なし」という状態に突入することが、原理的にできなくなります。
「我思う、故に我あり」という視点とは別の視点を設定することによって、「我なし」という状態に突入することができるようになります(このことは、デカルトの「我思う、故に我あり」が意味しているところを感動をもって味わった者にははっきりと分かると思います。逆に、そうではない者にはほとんど分からない可能性があります)。
つまり中島は、論者の問題としている土俵(「状況」でも「問題意識」でも良いですが)を意図的にずらして、自身の見解の補強としてしまっているわけです。この人の得意技なんでしょうか・・・? 私の記憶が確かでしたら、そんな手法を前にも使っていたような気がしますが・・・。
コメントする