今号『表現者75』で西部邁さんが引退されるそうです。残念ですが、引き際は大事ですから、良いタイミングなのかもしれません。
というわけで、西部さん最後の座談会『日本文化の本来性とは何か』を見てみましょう。はじめの方は、いつものように西洋など海外との対比が論じられたりしているのですが、後半は佐伯啓思さんと無の思想についての会話が主になっています。無の思想については、『表現者48』の座談会でも論じられていました(そのときにも感想を書いていますので興味のある方は是非)。
無の思想の議論を結論から言ってしまうと、まったく噛み合っていないまま終わってしまっています。そして、その責任は佐伯さんにあります。
<p62>
西部 僕が言いたいのは、「無」というのを一言では表せないのかもしれませんが、僕に教えてくれと頼んでいるわけです。何を以って「無」と言うのかを。
上記のように、西部さんは、佐伯さんが言う「無」が分からないから教えてくれと頼んでいるわけです。それに対し、佐伯さんが分かるような言葉で語っていないのです。ここの座談会の文章から、佐伯さんが西田幾多郎の「絶対無」や日本思想の「無の思想」に親近感をいだいているのは分かるのですが、明晰に理解できていないのでしょう。なぜなら、西部さんの問いにきちんと回答できていないからです。
<p63>
佐伯 そういう意味ではなくて、精神的な無のことです。
西部 もちろん、そうだけど、精神だっていきなり降って湧くわけではなく、親から聞いた言葉とか、さまざまなことがからんでいるはずです。何も持たずに、ここにいるというのは、それは宗教者のおとぎ話じゃないんですか。
佐伯 いやあ、どうかな(笑)。僕には、そういうふうには思えないんですけれど。
ここで西部さんが言っていることはもっともなことです。精神には言葉がからんでいますから、そういった意味では「無」いのではなく、むしろ「有」ると言うべきです。
だから、語る次元がズレているだけなのです。西田哲学での「無」は、ここの前段階にかかわるものなのです。例えば、確かに精神にはさまざまなことがからんでいるのですが、その精神が西部邁(読んでいるあなたの名前に置き換えてみてください)という人物であることに根拠は「無」いわけです。根拠が無いのですが、親とか言葉とかとからむ前に、何故か、この精神は西部邁という人物と紐づいているわけです。根拠が無いはずのものが有るので、それは無の場所と呼ばれるわけです。
こういった西田哲学の論理構造は、その哲学的水準に達していれば(日本思想に馴染んでいると理解しやすいとは言えますが)洋の東西を問わずに理解可能なものなのです。しかし、座談会の誰もこのことに理解が及んでいないのです。
<p71>
西部 (略)すると、人間が言葉の動物であり、同時にそこに時間とか生涯が入ると、物語る動物であるというように考えたときに、やはりどうしても、佐伯大先生から「無」と言われると、結局は佐伯さんだって物語を作って死ぬんじゃないかと反論をしたくなるんです。
だから、この反論はもっともなのです。ここで西部さんが論じている次元においては、「無」ではなく「有」るのですから。だから、この次元ではそうなのだけれど、それとは違う次元で「無」を論じているのだと説明しなければならないのです。
ちなみに、さらにややこしいことに、ここの西部さんの反論に対し、哲学的な「無の場所」と、日本的な「無心」の双方向から再反論することができます。しかし、話が長くなりますので、「無心」の論理は省略します(興味のある方は『表現者48』の方の感想を参照してください)。
また、「編集後記」には、次のようにあります。
なお『表現者』を若い世代がいかに引き継ぎ、真正保守の立場を貫きつつ、さらなる歩みをどのように展開するか、今皆で検討中です。
西部さんが抜けた後にどうなるかですが、かなり厳しいのではないかと思われます。
今号で、あまりにヒドイ論稿があり、読んでいて気持ち悪くなったくらいです。それは、岸間卓蔵さんの寄稿『文芸の土壌問題 近代における日本語の宿命』です。こんなものを載せるレベルなら、先は暗いと思います。この論稿を簡単にまとめるなら、論理性の欠片もない人物が、上から目線で日本語の悪口を言っているだけ、というものになります。
<p141>
論理とは、人と人とがなるべく齟齬なく話すためのルールである。本来、客観的なのが言語の特徴だが、それをどこまで突きつめるかで、言語の論理性が変わってくる。日本語の発達段階では、徹底的に議論することがなかった。従って、高度な文化を有した国の中では、日本語は世界でも、最も論理性のない言語の一つである。
すごい見解ですね。ただし、この著者が根拠も示さずに勝手に言っているだけです。今更、日本語に論理性が無いといった低レベルな文章を見せられるとうんざりします。敗戦コンプレックスが残っていたひと昔前には、こういった意見が見られましたが。例えば、1987年の中島文雄『日本語の構造』とかですね。
しかし、最近の日本語論では、しっかりした論理に基づいて日本語の特徴が論じられており、日本語は論理的ではないといった愚論が一蹴されています。例えば、2015年の松尾義之『日本語の科学が世界を変える』など。
<p148>
というよりも、ある概念に対する議論をするなど、今の今までほとんどこの島国では行われて来なかった。それは日本語の文法を見ても明らかで、インド・ヨーロッパ語のように主語-動詞という作りでもなければ、ヘブライ語やアラビア語のように動詞が最初に来るわけでもない。主語がないことが多ければ、動詞は修飾語の後に位置するという具合だ。
上記の意見も、すさまじく馬鹿げています。文法の「主語-動詞という作り」が、なぜ議論の質を保証できるのか意味不明です。岸間卓蔵さんの中では筋の通った意見になっているつもりなのかもしれませんが、読者に最低限の知性があれば、支離滅裂であることが理解できるでしょう。
ラテン語がどうの、ヘブライ語がどうのと書かれているため、一見すると高尚な文章に見えますが、その実体は愚かで傲慢な文章です。論理性の欠片も無い論理批判という、世にも珍しい駄文を見たいという奇特な方は、読んでみると面白いかもしれません。しかし、こんなレベルのものを載せるとは...。この著者は論外ですが、載せることを決めた編集者の責任でもありますね。
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