『大衆論』西部邁・富岡多恵子

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 西部邁さんと富岡多恵子さんの対談本です。西部さんの発言から、参照すべきところを抜き出してみましょう。


 つまり、言語が具体性を伴ったときのことを、今それを、こと新たに発見せねばならぬ。なぜならば旅人たちは、かつての自分の歩んできた足跡を忘れちゃっているから。そんなふうに思う。言葉の記号化という退屈な作業を続けるくらいなら、言葉の歴史の中に驚きを見出したいということです。言葉を記号と化す仕事なんか実につまらぬ、ちっぽけなことです。そして自分のちっぽけさを自覚したら、意味に満ち満ちていた言葉の歴史がかえって巨大なものに見えてくるんじゃないですか。だから、記号化の宿命はわかるんだけれども、そこでひとつ、昔のことを思い起こしてみるのも悪くはないぞというふうにいいたい。しかも、それも、かなり大声を上げていわないとね。



言葉を記号化する論理学は必要ですが、それだけだと確かに無味乾燥な気がします。やはり、抽象的な言葉の記号化は必要なのですが、それと同時に歴史における具体的な言葉のあり方を参照しなければならないのでしょう。


僕は西洋になんか......思いきっていってしまおう......なんの関心もないんですよ(笑い)。


 この発言、けっこう重要ですよね。ただ、そうは言っても西洋に惹き付けられているところがあるなぁと思わないでもないですが。

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