『表現者criterion 創刊号』感想

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 藤井聡、浜崎洋介、柴山桂太、川端祐一郎の4名による編集体制で『表現者criterion』がはじまりました。かなり分厚い本ですが、編集者が集まって座談会をし、原稿も各々2つずつ書いているので、この4名の色に染まった雑誌になっています。ですので、雑誌の真価は、この4名の水準にかかっているわけです。

 結論から言うと、柴山だけとびぬけて優秀で、後の3名はちょっと擁護できないレベルでした。いくつか論点をまとめて論じてみましょう。



(1)基準(クライテリオン)について

 まずは、基準についての考え方から。いわゆる保守思想は、理性主義や設計主義に対する抵抗から出てきました。社会に新たな基準を打ち立てようとする勢力に対抗する思想でした。柴山は、その線で基準を求めていることが分かります。「わが内なる生活者」(65頁)で、柴山は次のように書いています。

 オークショットが言うように、近代で進歩的な志向が強まり、保守的な特質が全般的に弱まっているのも事実であろう。しかし、それでも生活の根本感情を、理想郷より現在の笑いを、変化によって得られるかもしれないものよりも今手にしているものに価値を置いたままだ。それが庶民の変わらぬ暮らしであろう。その偏愛と偏見から、信義や正義、公共的制度への愛着や権威に対する畏怖、生活美や共感の感情を引き出しているはずだ。保守主義は、こうした道徳感情に言葉を与え、思想にまで高めることで、近代主義との対決を続けてきたのである。


 この立場には賛成できます。伝統が見えづらくなってきたとしても、庶民生活における偏愛と偏見から基準を見出そうという姿勢には同意できます。しかし、他の編集の3名は、どうやら違う観点を持っているようなのです。



(2)藤井聡

 藤井は、〈我々の身の回りから今、保守すべき「伝統」があらかた消失してしまったのであり、それが平成末期の今日の日本〉(70頁)と書いています。ちなみに原稿は、「隷属に抗う勇気、保守を超えた再生」です。保守を超えた再生、ですよ? 本音が漏れちゃっていますね(笑)。保守を超えたものを、その基準を、藤井が出すというわけです(笑)。

 また藤井はやたらと奴隷という言葉を連呼しています。今回から第Ⅱ期ですが、〈そもそも「奴隷」でいることに甘んじた者に倫理なり道徳なりを語る資格などない〉(67頁)と偉そうです。前号の第Ⅰ期の最終号でも、「馬鹿と奴隷の国の中で」という原稿を書いています。現代の日本人を奴隷とみなし、偉そうに語るということが、そうとうにお好きなようです(笑)。西部邁は大衆批判を繰り広げましたが、それを「大衆」→「奴隷」へと進化させているわけです。西部の大衆批判は、自身の地位も名誉も金も犠牲にする覚悟を伴うもので本物でしたが、当然ながら、藤井にその覚悟はないでしょう。

 もう少しだけ述べておくと、藤井の"伝統"についての理解もひどいものです。座談会(22頁)で、藤井は次のように述べています。


 ただし、良質な伝統が保守されている幸福な理想的社会ならば「クライテリオンを巡る議論」は不要だと言えるでしょう。例えば、前近代の安定した時代に生きたお百姓さんたちは、とりたてて高度に抽象的な議論など経ずとも、彼らが身につけた「伝統」に従うことを軸にすれば、豊かな実りを得ることができたでしょう。


 これは二つの観点から問題があります。一つ目は、安易に前近代のお百姓を理想的社会とみなしていることです。百姓の仕事や生活をなめすぎです。例えば、江戸の農民の識字率は高く、高度な文化や仕事の改良を実践していました。また、現代との死亡率を比較すると、現代がいかに制度的に恵まれているかも理解できるはずです。

 二つ目は、伝統という用語について、西部などが展開してきた成果を反映していないことです。これについては、柴山が「常識を考える」(159頁)で述べている伝統の説明が参考になるでしょう。


 伝統についての重要な論点がここにある。バークは伝統という言葉を用いていないが、危機において意識化されるものを(日本の保守思想家に倣って)伝統と呼んでおきたい。古くは小林秀雄が、最近では西部邁が繰り返し強調してきたように、慣習と伝統は同じものではない。慣習はわれわれが無意識のうちに従っているものであるが、伝統はそうではない。慣習の自明性が失われるような非常事態にあって、慣習の中から意識的に取り出された判断の基準が伝統である。


 こういった伝統をめぐる言葉遣いに、藤井の傲慢さが透けて見えるようです。伝統に従えばよかった前近代のお百姓さんは楽で、伝統が消失したところから基準を求める俺は大変だという意識でもあるのでしょうかね?



(3)浜崎洋介

 浜崎の原稿「現代人は愛しうるか」(97頁)に、次のような記述があります。


 「自殺」か「全体主義」しか選択肢を残していないかに見える現代の大衆社会のなかで、果たして、人が人を愛しうるための「クライテリオン」とは何なのか。


 これ、本当に書いてありますからね。嘘じゃないですよ。

 このレベルに達していると、もはや笑うこともできないです。浜崎には現代が、「自殺」か「全体主義」しか選択肢を残してないかに見えるのでしょう。率直に言ってしまいますが、病んでいますね。こんな突拍子もない意見に同意できる人って、日本中に何人いるのでしょうか? 10名もいないと思いますけど...。

 あと、現代でも、人は普通に人を愛して生活しています。病んでいる人に、わざわざ人を愛しうる基準など出していただかなくて構いませんので。



(4)川端祐一郎

 川端は座談会(33頁)で次のように述べています。


 丸山眞男の思想全体には賛成できないことはいっぱいありますが、良いことも言っていて、日本で何か議論が起きると、どうも日本人というのは、前の段階でいろんな人が積み上げてきた議論を一切踏まえずに、もう一回最初から議論するのだと。つまり、議論の積み重ねができないようになっていて、日本人は昔から伝統的にそうなんだということを言っているのですね。本当にそうだとすると、議論の積み重ねも意見の突き合わせもしないというのは、何か僕らの代に特有のことではないわけで、ひょっとして日本人のもともと持っている習性にそういう傾向があるとしたら、かなり絶望的ですよね(笑)。


 (笑)。

 日本思想史では、きちんと積み重ねの上で議論がなされています。日本人や日本思想は、決して絶望的ではありません。絶望的なのは、川端の知的誠実性の方です。

 ちなみに、あまりにまずいと思ったのか、柴山が座談会の最後(55~56頁)で次のように述べています。

 もう一つは、確かに日本人の中に今までご指摘があったようなある種の弱さがあることは事実なのだけど、ただ一方で日本の思想の系譜を辿ると、西洋の優れたものと共鳴しあうものがたくさんある。


 この見解は、さすがといったところです。



(5)柴山桂太

 西部邁がいなくなり、『表現者criterion』から、なぜか佐伯啓思の原稿も排除されたようです。なので、立ち読みではなく購入する動機は、柴山の原稿の水準次第になってしまいました。あくまで私個人の意見ですけどね。

 今号の柴山の二つの原稿は高水準でした。しかし、今後もこの水準を保てるかは未知数です。二つの不安材料があるからです。一つ目は、他の編集に引きずられて劣化する可能性があること。二つ目は、特に連載の「常識を考える」に顕著ですが、ある制約条件の上で論じていることです。勘の良い方は、その制約条件にピンとくると思います。その条件のゆえに、文章の水準が落ちる可能性があります。もしくは、その条件のゆえに、文章に感動が生まれる可能性もあります。今後の原稿に期待したいところです。


(6)参考になる原稿

 あくまで私個人の見解ですが、参考になる原稿は限られていました。ここを見てくださる方のために、一応挙げておきましょう。

・『わが内なる生活者』柴山桂太

・『保守主義のクライテリオンとしての「実証性」』仲正昌樹

・『クライテリオンの忘却を防ぐために』施光恒

・『リアリスト外交の賢人たち ドゴールの思想と行動PratⅠ』伊藤貫

・『「常識(コモンセンス)」を考える 懐疑主義を超えて』柴山桂太


 それにしても、クライテリオンというカタカナが氾濫していて、読みづらく、いささかうんざりしてしまったというのが正直なところです。別に日本語で、基準が必要だと言えば良いだけなんですけどね。日本語で良いところをカタカナ用語で得意そうに語る人たちって、正直なところ苦手です。


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