西部さんのセリフから、印象深いものを選んでご紹介してみましょう。
幸せという言葉は私も遣わないわけじゃない。だけれども、活字としては、「仕合わせ」のほうを選びます。
これには私なりの思いがあって、「仕合わせ」というのは、生の良い形というものが、もっといえば精神の良い形というのがあるはずだととらえ、その方向に自分の言葉や振る舞いを合わせることができたときに得られるものです。「為合わせ」という字も同じことです。
単純に、幸せと言ってしまうことに抵抗があるという感覚。私も分かります。仮に自分が幸せだったとしても、「私は幸せだ」と公言することには、なにか疚しさがあると思われるのです。
どういう人生の形を選ぶかということは、どういう生=死の物語を選ぶかということと同じです。生も死もあるべき物語のための材料にすぎないんです。
それを、西部さんは常に問い、そして実践したわけです。それは、やはり偉大なことだったのでしょう。
というのも歴史をながめると、真善美はいつも少数派の側にあり、そして少数ですからいつも負け戦さだったんです。でも、歴史を通じて残されたものを勘定してみれば、幸いにも愚かなる多数派の言い分はおおよそその場かぎりのものとして消滅していますので、少数派の勝利なんです。
時間軸に沿ってながめれば、多数派の流れは次々と砂漠に没していく。歴史の一貫した流れを可能にしているのは少数派による真善美への努力だといってよいのではないでしょうか。
これは、確かにそうだなぁと思う反面、違うのではないかという感じも覚えます。おそらく、歴史の流れは、多数派がつくったといっても、少数派がつくったといっても、不十分なのでしょう。ときには多数派がつくり、ときには少数派がつくり、その境目は、容易には判断できないものなのだと思われます。
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