西部邁の死をめぐる、偉大と秀逸とヘッポコと卑劣(4)

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 最後は、西尾幹二の『我が好敵手への別れの言葉』です。読むだけでムカムカしてくる原稿でした。死人に口なしということを利用し、極めて卑劣な言論が展開されていました。

 西尾が西部と対立しだしたのは「新しい歴史教科書をつくる会」の発足からで、特にその後のイラク戦争における言論でピークに達します。いわゆる反米保守・西部邁と、いわゆる親米保守・西尾幹二による言論戦です。

 そこで西尾は、「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい「思想」も、正しい「論理」もそのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう」とか、「論理と行動は多少とも離れていたほうがいい。つまりある程度思想的にはいい加減に生きたほうがいい」とか書いてしまっているのです。そういった卑劣な行動をすれば、西部と対立することになるのは当然の成り行きです。反米保守から西尾は、親米保守とか、ポチ保守とか呼ばれてバカにされたわけです。ポチ保守とは、アメリカ様の忠犬だと揶揄された言い方なわけです。

 西尾の卑劣な言動による対立ですが、死人に口なしということを利用し、西尾は西部が悪かったかのように追悼原稿の文章をつむいでいるのです。



 だから「合法ではないが合徳」というテロがあり得る、と言って、言外にアルカイダ・テロルを支持してみせる。しかし、もしそうであるならば、アメリカの軍事行動も「合法ではないが合徳」のテロルの一種とみなしてよいのではないか、という自然に思い浮かぶ読者の疑問には、一顧だにしない。



 「一顧だにしない」というのは言いがかりです。西部は著作や共著で、アメリカの軍事行動が如何に筋の通らないものであるかを、懇切丁寧に確かな論拠をもって展開しました。それに対し西尾は、アメリカの軍事力におびえ、アメリカに土下座しただけのことです。

 この言論戦は、議論の筋から言えば、大人と子供以上の戦力差で西部の圧勝だったというのがまともな見方でしょう。ですから、西尾は西部を貶めるのに、無理やりな論理展開をするしかないのです。例えば、以下のような文章で。



 氏が主幹である『発言者』(二〇〇一年十二月号)の座談会で、一人が西部先生の言葉として「ビンラディンの顔はイエス・キリストに似ているとおっしゃった。私はハッとしました。大直観だと思います」を読んだあの当時、私はあゝ、危いな危いなと思ったものだった。どうして西部氏はキリストの顔を知っているといえるのであろう。知らなければ似ているも何もないではないか。人類の中でイエス・キリストの実物の顔を思い浮かべることができる人が本当にいるのだろうか。氏はここまで意識が浮遊することが起こり得る一人であったことはほゞ間違いない。



 この論理に騙されるような人がいるのでしょうか? 西部が問題としているのは、顔の形状の類似性なんかではありません。熱狂的な宗教的情熱をもった人物には、その形相に類似性があるのではないかといった問題を思想的に論じていただけです。そして、思想家として世間に迎合するのでないのなら、その問いは無碍にできない問いでしょう。アメリカが怖くて、アメリカの前で思想的に戦うことを放棄した者が偉そうにしないでほしいものです。

 ちなみに、親米保守の代表として卑劣な言論を繰り広げた西尾ですが、さすがに分が悪いと思ったのか、途中から親米保守を非難しだすという離れ業を展開します(例えば『わしズムVol.31』など)。まさに恥も外聞もない振る舞いです。

 ですから、西部の追悼に際し、対立したときがあったが、西部の方が正しかったと素直に認めればよかったのです。そうすれば、卑劣な言論人生の最後に、少しばかりの誠実さを示すことができたはずです。

 しかし、やはり卑劣な人物は、最後まで卑劣であり続けたということなのでしょう。



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