以前からその存在は、中野剛志さんの『日本の没落』などで知っていましたが、ついにダグラス・マレーの『西洋の自死』の邦訳が出ました。
誇張でも何でもなく、現代日本の必読書でしょう。学生などには値段が高めに感じられる価格設定ですが、重要なので是非とも読んでみてください。現代日本の出入国管理法改正案は、実質的な移民法です。移民問題について、賛成するにしろ反対するにせよ、本書の論点は避けては通れません。特に、移民に賛成する側には、本書にみられる懸念に対する回答義務があると思われます。最低限の知的誠実性があるのなら、ですが。
本書に示される欧州の現実は、衝撃的なものです。人種差別主義者のレッテルをおそれて、レイプが隠蔽されていたという事実の指摘などを見ると、言いえぬほどのおぞましさを感じます。そんな場所は、もはやまともな社会ではありえないからです。マレーは、〈すべての地域に住む英国人が、法の支配を含む英国の規範だったもののために立ち上がるのを怠った〉と記述しています。本書から読み解くべき教訓の一つは、短期的な非難を恐れて不都合な現状を追認すると、長期的に壊滅的な被害を招いてしまう、ということだと思われます。
また、先祖の行為に対する現代人の謝罪という問題について、マレーの興味深い見解が示されています。
〈 現代の政治家にとって、そうした謝罪を表明することには政治的な意味しかない。そして罪が重く、非道さの度合いが大きいほど、謝罪は重みを増し、遺憾の意を表すことの潜在的な政治的利得は大きくなる。政治指導者たちはそうした発言を通じて、自らは汚点にかかわることなく度量の大きさを示せるわけだ。謝罪を行う人物自身は何も悪いことをしておらず、謝罪を受けられたはずの人々は全員死んでいるのだから。 〉
マレーはこれを、〈欧州人に特有で、欧州人に共通の熱病〉だと記述しています。しかし、日本の政治家・知識人・マスコミ関係者の戦後の言論を少しでも知っていれば、これは欧州人に特有のものではないことが分かります。現代の価値観によって、すでに死者となっている先人を裁くという行為には、大なる可能性で卑しさが伴うものなのでしょう。
ドイツのある国会議員の態度を、マレーは次のように評しています。
〈 彼は進んですべての移民の窮状を代弁し、すべての国境を非難した。そして同時に移民の流入は自然に鈍化したのだという振りをしようとした。そうすることで彼の良心と生存本能は折り合える余地を見出せたのだ。移民は勝手に来なくなったのだというふりをする一方で、移民の来訪を妨げる政策を支持していれば、人道主義者のままでいられたし、権力の座にもとどまれた。彼が自分自身と交わしたような契約を、他の多くのドイツ人も結び始めていた。 〉
ここには欺瞞があります。日本にも、これと似たような欺瞞を語る輩がいます。そういった卑しい人物にはなりたくないものです。
私としては、いくつか挙げられているマレーの考えの中で、次の提案にもっとも同意します。
〈 保守主義者のバークは次のように洞察した。文化や社会というものは、たまたま今そこにいる人々の便のためにではなく、死者と生者とこれから生まれてくる者たちが結ぶ大切な契約のために働くものだと。
そうした社会観においては、尽きることなく供給される安価な労働力や、多様な料理、特定の世代の良心を慰謝することなどを通じて人々がどれほど大きな恩恵を得たいと望んでも、その社会を根底から変えてしまう権利までは持ちえない。なぜなら自分たちが受け継いだ良いものは、次に引き渡すべきものでもあるからだ。〉
できれば今後の日本も、このような考えの方向に進めば良いのにと私は思います。他の方々がどう思うかは、また別の問題ではありますが、とりあえず本書を読んで考えてから発言してほしいと切実に思います。そのため、次のようなマレーの言い分にも同意します。
〈 危機はそもそも欧州のものではなく世界のものであり、これを論じることすらが欧州中心の物の見方を反映していると言う人々もいる。だが欧州人が欧州中心的になったり、そうした感じ方をしたりしてはいけない理由はない。欧州は欧州人の〝家〟なのだ。そして我々は米国人やインド人、パキスタン人、日本人など、あらゆる国の人々と同等に自国中心的になる権利がある。 〉