書かれている内容も、重要な論点がたくさん論じられているので、是非読んでみてください。各論点について、ほとんど反論はないのですが、私と佐伯さんで感じ方が大きく異なっている箇所を2点ほど挙げておきます。
一つ目は、第三章の〈人は"姥捨て"から進歩したか〉という節です。佐伯さんは〈姥捨てを悲惨だ、凄惨だ、人権無視だといって非難するほど、われわれが進歩したわけでもなんでもない、ということなのです。〉と述べています。しかし私は、進歩していないとかいうレベルでは収まらない、大きな大きな相違をそこに見てしまうのです。『楢山節考』の辰平とおりん婆さんの振る舞いに対し、私はそこに、人間の魂の最も偉大なあり方の一つを見てしまうのです。それに対し、現代の〈病院のベッドでチューブ人間〉には、もはや人間の魂を感じることができないのです。人間の精神の可能性において、最も偉大なものと、最も歪(いびつ)で醜悪なものの対比を見てしまうのです。おそらく、そのように見てしまうのは、私がおかしいからと他者からは指摘されるのでしょう。しかし、私はそう感じてしまうのです。
二つ目は、第六章の宮沢賢治の「無声慟哭」の解釈についてです。佐伯さんは「無声慟哭」に対し、地震の被災者ときわめて近いものを感じていますが、私にはそうは思えませんでした。というより、「無声慟哭」の内実については、菅原千恵子さんの『宮沢賢治の青春(角川文庫)』の解釈が正しいと思うのです。簡単に言うと、賢治の影響によって法華経を信じて死んだ妹と、もはや法華経を信じ切れない賢治自身の心の相違が葛藤となり、「無声慟哭」にあらわれている、と考えられるのです。もちろん、被災者と通じるところもあるとは思いますが・・・。
以上の2点以外は、大筋で同意できました。安易な幸福論など読むくらいなら、この『反・幸福論』を読むことをお勧めします。