西部邁の処女作です。イプシロン出版企画から再度出版されているので、入手が容易になりました。この先に展開される考えの芽が散見されます。記述は、今後の著作と比べるとかなり読みにくいです。最晩年の著作も読みにくくなっているので、一周して元に戻ったということなのかもしれません。読むなら成熟した頃の著作の方がお勧めなので、初心者むけではないですね。
2017年12月アーカイブ
思想家の西部邁さんが引退されたので、過去の著作を振り返る企画をしてみようと思います。ごくごく簡単なものを不定期でやるので、それほど期待せずにお待ちください。
本書は、「大思想家ニシベ 最期の書!」と銘打たれています。非常にたくさんの本を出して来た西部邁ですが、これが最後の本となりそうです。
西部邁の一連の著作を読んで来た者としては、加齢に伴い文章に堅さが出て来ているなぁと感じられます。年齢に伴う文章の変化を感じるといった意味でも、興味深い本だと思います。
今までの著作を読んで来た人には、目新しい内容は少ないですが、G・K・チェスタトンの「狂気に一抹の魅力があることを認めぬわけではないが、それを認めるためにもこちとらが正気でなければならぬ」が座右の銘だったとか、細かい発見はあり得るでしょう。
また、今後の弟子筋に関わることとして、興味深い文章があったので引用してみます。
少し勝手気儘に喋りたくなった。
私の友人である佐伯啓思氏と藤井聡氏のあいだで経済成長をめぐって論争の起こる気配が少しある。前者は「経済成長主義」によって文化の衰弱がもたらされるとみているのにたいし、後者はその反成長主義が日本国家に多大の混乱をもたらす懸念ありとみなしているからだ。むろん両者には共通点があって、それは成長主義に伴うマテリアリズムやマモ二ズムやテクノロジズムそのものには大いに懐疑的だということになろうか。両者の差異点といえば「状況の中での政策実践」としての成長政策に消極的か積極的かといった程度の話ではある。これにたいし述者は、率直にいって、明確な判断を下すことができない。
この経済成長についての論点は重要です。佐伯啓思氏と藤井聡氏は『表現者』という雑誌に寄稿しているのですが、西部邁の引退に伴い、今後は藤井聡氏を編集長とした『表現者criterion』として継続するそうです(変な名前だと思いますが)。
その『表現者criterion』にて、この経済成長についての議論を行い、何らかの結論は出してほしいものです。議論の大切さを説いてきたグループですので、ヘタな馴れ合いなどせずに、議論のお手本を見せてほしいですね。
今後は、西部邁の弟子筋の動きがどうなるかといった観点に注目してみるのも、面白いのかもしれません。
今号で『表現者』の第一期が終わり、次号から第二期の『表現者criterion』が始まるそうです。嘘ではありませんよ(笑)。
『表現者criterion』って、漢字とアルファベットの組み合わせで、個人的には悪い方向の中二病って感じがします。雑誌の題名としてどうなのでしょうね? criterion(クライテリオン)の意味が分からない人は手に取らないでしょうし、「基準」という意味だと分かったとしても、「表現者・基準」というものの意図が伝わりにくいと思いますし...。
今後の『表現者criterion』が成功するかどうかは未知数ですが、前途はかなり厳しいのではないかと思われます。なぜなら、現在の「表現者」執筆陣の原稿を読んでみても、西部邁流の大衆批判を悪い意味で引き継いでいる人たちばかりだと感じられるからです。日本を良くするためというよりも、自分が居張りたいだけの人たちばかりだと感じられるのです。
西部の大衆批判については、うなずけるところもあれば、否定的にならざるを得ないところもありました。しかし、そこには敬意を表さざるを得ないものがありました。それは、西部が自身の不利益を顧みずに大衆批判をしていたところです。東大駒場騒動で東大を辞め、イラク戦争で自身の読者を減らすことを覚悟でアメリカ批判を行ったからです。自身の不利益を覚悟した言説に、西部邁が本物である証(あかし)がありました。
安易に大衆批判を繰り広げる弟子たちに、その覚悟があるのかというと、彼らの実際の実践から、あまり感じられないというのが正直なところです。
また、西部の大衆批判が成功したと言えないのなら、戦略的に言説の修正や改正が必要になるはずです。