次は、富岡幸一郎の『戦後日本人に突きつけた最後の問い』です。本原稿の内容は、西部と富岡の長い関係がしのばれるものになっています。二人の関係した濃密な時間が可能とした、秀逸な内容をみることができます。
西部の死を、富岡は「自殺」ではなく「自裁死」ととらえています。その実践について、彼は次のように述べています。
それは、「人格上のインテグリティ(総合性、一貫性、誠実性)」を己れの言動の最も本質的なものとされてきた西部先生にとっては、ごく自然な、あえていえば言論人として当然の理であったろう。だからこそ今回の自裁死は、西部邁という思想家がわれわれに呈した最後の、そしてとても大切な課題であると私は受け止めたいのである。
ここには、謙虚な弟子の姿勢がみられます。しかし、かなり危ういことが表明されていると私には思われます。たしかに前半の西部の自裁死が「人格上のインテグリティ」からのものだというのはその通りだと思います。問題は、後半部です。西部の自裁死を、「課題」として受け止めるということについてです。
私は、西部の自裁死を「課題」とは受け止めていません。なぜなら、西部は生前の著作で、自分の自裁死の論理を明確に描き切っているからです。ですから、私にとって西部の自裁死は、私の人生の締めくくりについての、あくまで一つの選択肢としての、参考例になるのです。少なくとも、そういった選択がありえるのだという認識、および、それを実践した人物がいたという認識は、自身の人生にとって有益だと私には思われます。
しかし、それを「課題」とするということは、さらに一歩踏み込んだ表現です。つまり、自分は自裁死を選ぶのかという問いが課されたということを意味するでしょう。違うでしょうか?
富岡はクリスチャンだったと思います。そして、クリスチャンは「自殺」が禁じられているはずだったと思います。西部の自裁死を、自身の「課題」と受け止めるなら、死の前の表明が求められるはずです。少なくとも、思想的に誠実であろうとするのなら。
富岡は、もしかすると、そこまで考えずに表面的な言葉を書いてしまっただけなのかもしれません。ですが、仮に、そこまで考えて「課題」と言っているのなら、その後の経過が気になります。
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