私は、脱原発派なので、本書は諸手を挙げて賛成したいところです。
ですが、一つおかしなところがあります。本書の第2章の『原発は「危険物質」と「嘘」で出来ている』において、小林さんが佐伯啓思さんを批判している点です。
小林さんは、〈佐伯氏は8月16日の産経新聞で、「脱原発」と言っても、ドラマ『北の国から』の主人公・黒板五郎のように、電気のない富良野の山奥に丸太小屋を建てて移住しようとは誰も言わない、ドラマのロケ地の「五郎の最初の家」などは「観光スポットにちゃっかりと収まっている」「文明化は必然であって、よいも悪いもない」と書いてしまった!〉と言っています。続くコマで、〈脱原発の気運に批判的な立場を選んでしまったのだ。〉と断定しています。
私は佐伯さんがそのような意見を述べたとは思えなかったので、違和感を覚えました。ちなみに佐伯さんは、『表現者39』の特集座談会において、〈僕はガヴァナンスの一環として、脱グローバリズム、脱原発、脱金融資本主義を入れるべきだと思います。〉と述べています。
小林さんが批判した佐伯さんの論考は、『利便性と換えられないもの』という題名です。この論考を読んで驚きました。佐伯さんが「脱原発」という用語を用いている箇所は、〈東京の町は暗くなり、全国的に脱原発で電力消費の削減が唱えられている。しかしだからといって誰も、あの麓郷(ろくごう)へ移住しようなどとは言わない。〉となっているのです。ここでの麓郷は、いったい何を意味しているのでしょうか。それは論考内で既に示されており、〈純という男の子がこの地についてまず言ったのは次の言葉だった。「電気のないところでいったいどうやって生活するのですか」〉とあるように、麓郷への移住が電気のない生活を指しているのが分かります。
つまり、佐伯さんの言っていることは、脱原発で電力消費の削減が唱えられている。しかし、電気のない生活に戻ることはできないということです。これは、あまりに当たり前のことを述べているだけです。そもそもこの論考で大事な点は、電気のない生活には戻れないが、電気のない生活を送った純という男の子が、〈いかに不便でもそれに耐えなければならない何かがある、と思えた〉ことであり、〈文明化のなかで、一瞬、純の心をとらえたあの「何か」をわれわれが失ってしまったら、この都会的文明そのものがただの虚栄の市に過ぎなくなるであろう。その「何か」をわれわれは常に思い起こす必要があるのだろう。利便性や快適さとは引き換えられない「何か」である。〉という点なのです。ですから、この論考の題名が『利便性と換えられないもの』なのです。
佐伯さんが言っていることをまとめると、脱原発で節電になる。だが、電気のない生活には戻れない。だが、不便でも耐えなければならない大切な何かがある、ということなのです。この意見から、小林さんのように、〈脱原発の気運に批判的な立場を選んでしまったのだ。〉と断定することは無理があると思います。
小林さんは『(ゴーマニズム宣言SPECIAL)パール真論』の[131ページの6コマ目]において、〈「文脈」無視で「ネガティブな語」だけを取り出し、あとは全部、勝手に作文するという詐欺的手法を駆使して、パール判決書の文脈をことごとくねじ曲げていく。〉と論敵を非難しています。この指摘はもっともなのですが、まさか小林さん自身がその詐欺的手法を駆使するとは夢にも思いませんでした。
佐伯さんは、『大きな議論消えたこの1年』という論考で、〈私は、短期的には安全性の高い原発はすみやかに再稼働すべきであり、長期的には経済成長の予測とエネルギー自給と分散の観点を考慮しつつ徐々に減原発にもってゆくのがよいと思うが、いずれにせよ、これはある程度長期的な日本社会のビジョンと不可分であろう〉と述べています。ですから、佐伯さんが「将来的に脱原発」であり、「即時廃原発」ではない点を非難するなら分かります。ですが、言ってはいないことを捏造して批判するのはおかしいと思うのです。
以上の見解が間違っていたら、謝罪して訂正します。
他の章にも、このような言葉の切り貼りによって、論敵を不当に貶めている疑いが消えません。
2012年8月アーカイブ
本書中で最も面白かったのは、p.88の中野さんの発言で、〈モデルをつくった学者は、その数字が一人歩きするだろうと知っている。もし専門家に追及されたら、「私はこれこれの前提があると言っている。それを言わない政治家がいけない」と言い訳するのでしょう。そういう言い訳に対しては、「よしよし、お前が悪くないのはわかった。お前は卑怯なだけなんだな〉と言ってやりたいですね。と語られているところです。いや~、素晴らしいユーモアのセンスです。
本書で、唯一理解できなかったのは、p.162の藤井さんの発言で、〈本来的な民主主義とは、国民民主主義のことです。〉というところです。国民民主主義に対し、〈大衆民主主義〉が示されています。その後で、〈民主主義は必然的に非本来的なものに流れていきがちです。〉とあります。これは、とても変な考えだと思われるのです。私には、「本来的な民主主義とは、大衆民主主義のことであり、民主主義は必然的に本来的な大衆性へと流れていく」と思われるのです。もし民主主義を国民民主主義としたいなら、民主主義の中に、非民主的要素を持ち込む必要があるはずなんですよね。
また、p.173の〈大衆性テスト〉をやってみました。私は、3個でした。ですので、テスト結果では非大衆人ということになります。でも、19の〈自分は進んで義務や困難を負う方だ〉に○を付けない時点で、自分は十分に大衆的だと思います(笑)。
あと、9の〈人は人、自分は自分、だと思う〉に○を付けましたが、オルテガの「自分の歯痛は自分だけが痛い」という観点からの意見なので、その場合は結果が逆になると思うんですよね。14の〈日々の日常生活は感謝すべき対象で満たされている〉にも○を付けませんでしたが、感謝する対象がたくさんあっても、満たされてはいないだろって思う場合はどうなんですかね?逆になりませんかね?
本書の最後は、中野さんの盛大な皮肉で締められています。これほど盛大な皮肉は、なかなかお目にかかれませんね(笑)。
『表現者44』の特集は、「EUの没落 その致命的欠陥」です。EUの没落は、日本経済にも波及するため人ごとではなく、極めて深刻な事態ですが、書かれている内容はめっちゃ面白かったです。
・特集座談会
p.032の柴山さんの発言に、〈道州制の議論がありますが、あれは「日本をEUにする」ということなんです。簡単に言うと、道州制というのは通貨と軍事だけを中央政治が持って、あとの細かな政治の取り決めとか財政の基盤は全部地方に任せましょう、という話です。〉とあります。それから、道州制にすれば地域がギリシャ化することが指摘されています。まったくその通りだなぁ・・・、と思います。
・「道州制は日本のEU化を招く(柴山桂太)」
p.059に、〈EUでこれほどの危機が起きているにもかかわらず、EUと同じ構造に国家を改造しようとしている間抜けな国がある。言うまでもなく日本だ。〉とあり、p.063に〈道州制のようなバカげた改革論を続けたり、いい年した大人の「維新ごっこ」につきあっている時間も余裕もありはしないのである。〉とあります。
今号の柴山さんの意見によって、道州制を推進することの愚かさは、ほぼ完膚無きまでに明らかになってしまいました。これを論理的に反証するのは、まず無理でしょう。感情論でわめき立てる間抜けはいるでしょうが・・・。
・「矛盾に引き裂かれるヨーロッパ(佐伯啓思)」
p.066に、〈同じ生産要素であっても「資本」と「労働」ではまったく意味が違うのである。自由に浮動する「資本」と、地域に固定された「労働」の間のギャップによって、地域の格差が生み出されることになる。〉と指摘されています。まっとうな意見なんですが、このまっとうな意見をかなぐり捨ててEUは運営されていたんですよね。
p.068で佐伯さんは、〈今日、われわれはこうしたEUの苦悶を目撃している。しかし実は、それはEU形成が具体化した時点で十分に予見できることであった。本当をいえば、何も今頃になってあたふたとするような事態ではないはずだ。〉と述べています。その通りなんで、『発言者』や『表現者』を読んでた人は、やっぱりねって思うだけです。
・「ユーロ危機の政治的意味(東谷暁)」
注目すべき意見として、p.071に、〈今回の危機がこれまでのものに比べて深刻なのは、摩擦と混乱を通じて各国のナショナリズムに火をつけてしまったことだ。なんとなく漠然とEUは統合するだろうと思っていたが、実際に他の国がどのように行動するか目の当たりにしたら、そこには自国の利益だけが目立っていた。それでは、これまでの努力は何だったのかと思いたくなるだろう。〉とあります。
・「権力闘争の手段と化した消費増税法案(富岡幸雄)」
p.138に、〈産業界や電力会社、官僚に押しきられて安全性の確保が十分でないまま余儀なくされた感の強い原発の再稼働〉とあります。この意見は良いですね。『表現者』は、反・脱原発の傾向が強いのですが、さすがに今回の再稼働をブラボーするほどXXではなくて少し安心しました。
・「住民・国民と衝突する市場・資本(西部邁)」
p.163に〈「国家経済〉を乗り超えることが不必要にして不可能〉とあり、その理由が説明されています。 確かに、ず~っと言ってきましたもんね。