今号については、立ち読みでも何でもよいので、佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』と富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』だけは読んでみてください。この二つの論稿を読み比べてみることで、危機における人間の醜さと気高さを共に目撃することができるでしょう。実に貴重な体験になると思われます。
まずは、佐藤の論稿から、西部邁に対する重要な記述を引用してみましょう。
弟子に雑誌を引き継がせながら、それを意図的につぶそうとしたのです。
思想以前に、人間としてのモラルが破綻していると批判されても仕方ないんじゃありませんかね?
一方、富岡の論稿で注意すべき記述を引用してみましょう。
自殺幇助の疑いで逮捕された事情もあり、あらためて西部先生の自死について、ここで記してみたいのである。これは筆者の勝手な判断であり、本誌の編集委員会(筆者は顧問として参加している)を通してのことではないことを、あらかじめご了承いただきたい。
この富岡の論稿に、私は敬意を表します。一方、佐藤には人格的な意味における軽蔑しか感じられませんでした。死人に口なしということを、最低の形で利用していますから。
上記の記述から、『表現者クライテリオン』の編集委員会の見解は、佐藤のそれと同じであることが分かります。なぜなら、佐藤の論稿では、佐藤の主観だけではなく雑誌(表現者クライテリオン)側からの見解も語られており、それを編集委員会が載せることを許可しているのですから。一方、富岡の論稿は編集委員会を通してのことではないと明言されています。ですから、客観的な事実から導かれる結論は一つでしょう。
まあ、今までの経緯を振り返ってみれば、自殺幇助は都合のよいきっかけに過ぎず、これは規定路線だったのでしょう。
(1) 最終号の『表現者2018年1月号』で、藤井聡が『表現者criterion』編集長として、〈西部先生が表現し続けてこられた保守の精神を継承(conserve)する〉ことを表明する。
(2) 『正論2018年4月号』で浜崎洋介が『西部邁 最後の夜』を書き、自殺の不信点を世間に公表する。
(3) 『表現者criterion 2018年3月号』の創刊号で、藤井聡が〈保守を超えた再生〉を表明する。
(4) 『表現者criterion 2018年5月号』で藤井聡が、生前は西部から論戦撤退しておきながら、死後に西部が論戦を回避したと言い出す。
(5) 『表現者クライテリオン 2018年7月号』の表紙で、「表現者」の文字サイズを最小化し、「クライテリオン」の文字サイズを最大化する。佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』が公表される。一方で、富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』が編集委員会を通していないと明言される。
こうして並べてみると、西部の思想の排除は、段階を踏んだ計画的なものだったのだと思えてきますね(笑)。
本号の編集後記では、〈最悪廃刊もあり得る状況〉だったと報告されています。私としては、いったん廃刊し、新しく「クライテリオン」という題目で新雑誌を創れば良いのにと思います。ここまで西部邁を侮辱するのなら、「表現者」を継ぐ必要はなく、勝手に新たな基準(クライテリオン)を打ち立てれば良いだけの話です。そうしないのは、西部を侮辱しながら、その読者層はそのまま取り込みたいという卑しい商売根性の他は考えられないからです。
こういった状況をみれば、こんな雑誌の論稿はすべて読む価値がないと言ってしまいそうですが、そこには注意が必要です。西部邁も生前は、請われればたいていの雑誌には書いていました。編集委員会がどうあれ、良い論稿が記載されていることは、あり得ることなのです。ですから、できるだけ誠実に冷静に、私なりに本号で読む価値のある論稿を、ここを見ている方のために挙げておこうと思います。
・『農は国の本なり』鈴木宣弘
・『恥辱と自尊』柴山桂太
・『グローバル化の歪みはどこから生じるのか』施 光恒
・『ドゴールの思想と行動PartⅡ』伊藤貫
・『北海道の分際』古川雄嗣
・『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』富岡幸一郎
上記の論稿は非常に高いレベルにありますので、是非とも読んでみることをお勧めします。
さて、いわゆる表現者グループも、その読者も、戦後日本や政権を偉そうに非難してきたはずです。それでしたら、身内にだけ甘いといったことは、あってはならないでしょう。卑劣に対しては、きちんとした批判が必要でしょう。少なくとも、今回の富岡の論稿には気概を感じることができました。私も、私なりに意見を表明しました。それでは、そこのあなたはどうでしょう?
※ 本書の感想の内容から判断し、登場人物を敬称略とさせていただきました。