2018年6月アーカイブ

 今号については、立ち読みでも何でもよいので、佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』と富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』だけは読んでみてください。この二つの論稿を読み比べてみることで、危機における人間の醜さと気高さを共に目撃することができるでしょう。実に貴重な体験になると思われます。

 まずは、佐藤の論稿から、西部邁に対する重要な記述を引用してみましょう。




 弟子に雑誌を引き継がせながら、それを意図的につぶそうとしたのです。

 思想以前に、人間としてのモラルが破綻していると批判されても仕方ないんじゃありませんかね?




 一方、富岡の論稿で注意すべき記述を引用してみましょう。




 自殺幇助の疑いで逮捕された事情もあり、あらためて西部先生の自死について、ここで記してみたいのである。これは筆者の勝手な判断であり、本誌の編集委員会(筆者は顧問として参加している)を通してのことではないことを、あらかじめご了承いただきたい。




 この富岡の論稿に、私は敬意を表します。一方、佐藤には人格的な意味における軽蔑しか感じられませんでした。死人に口なしということを、最低の形で利用していますから。

 上記の記述から、『表現者クライテリオン』の編集委員会の見解は、佐藤のそれと同じであることが分かります。なぜなら、佐藤の論稿では、佐藤の主観だけではなく雑誌(表現者クライテリオン)側からの見解も語られており、それを編集委員会が載せることを許可しているのですから。一方、富岡の論稿は編集委員会を通してのことではないと明言されています。ですから、客観的な事実から導かれる結論は一つでしょう。

 まあ、今までの経緯を振り返ってみれば、自殺幇助は都合のよいきっかけに過ぎず、これは規定路線だったのでしょう。




(1) 最終号の『表現者2018年1月号』で、藤井聡が『表現者criterion』編集長として、〈西部先生が表現し続けてこられた保守の精神を継承(conserve)する〉ことを表明する。

(2) 『正論2018年4月号』で浜崎洋介が『西部邁 最後の夜』を書き、自殺の不信点を世間に公表する。

(3) 『表現者criterion 2018年3月号』の創刊号で、藤井聡が〈保守を超えた再生〉を表明する。

(4) 『表現者criterion 2018年5月号』で藤井聡が、生前は西部から論戦撤退しておきながら、死後に西部が論戦を回避したと言い出す。

(5) 『表現者クライテリオン 2018年7月号』の表紙で、「表現者」の文字サイズを最小化し、「クライテリオン」の文字サイズを最大化する。佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』が公表される。一方で、富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』が編集委員会を通していないと明言される。




 こうして並べてみると、西部の思想の排除は、段階を踏んだ計画的なものだったのだと思えてきますね(笑)。

 本号の編集後記では、〈最悪廃刊もあり得る状況〉だったと報告されています。私としては、いったん廃刊し、新しく「クライテリオン」という題目で新雑誌を創れば良いのにと思います。ここまで西部邁を侮辱するのなら、「表現者」を継ぐ必要はなく、勝手に新たな基準(クライテリオン)を打ち立てれば良いだけの話です。そうしないのは、西部を侮辱しながら、その読者層はそのまま取り込みたいという卑しい商売根性の他は考えられないからです。

 こういった状況をみれば、こんな雑誌の論稿はすべて読む価値がないと言ってしまいそうですが、そこには注意が必要です。西部邁も生前は、請われればたいていの雑誌には書いていました。編集委員会がどうあれ、良い論稿が記載されていることは、あり得ることなのです。ですから、できるだけ誠実に冷静に、私なりに本号で読む価値のある論稿を、ここを見ている方のために挙げておこうと思います。




・『農は国の本なり』鈴木宣弘

・『恥辱と自尊』柴山桂太

・『グローバル化の歪みはどこから生じるのか』施 光恒

・『ドゴールの思想と行動PartⅡ』伊藤貫

・『北海道の分際』古川雄嗣

・『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』富岡幸一郎




 上記の論稿は非常に高いレベルにありますので、是非とも読んでみることをお勧めします。

 さて、いわゆる表現者グループも、その読者も、戦後日本や政権を偉そうに非難してきたはずです。それでしたら、身内にだけ甘いといったことは、あってはならないでしょう。卑劣に対しては、きちんとした批判が必要でしょう。少なくとも、今回の富岡の論稿には気概を感じることができました。私も、私なりに意見を表明しました。それでは、そこのあなたはどうでしょう?



※ 本書の感想の内容から判断し、登場人物を敬称略とさせていただきました。






菩提樹の焼け跡を見たファウストは、「あとをきれいにすれば、四方をくまなく見わたすことができる」という台詞を吐くが、「四方をくまなく見わたす」とは、際限のない進歩のことを暗示している。

中野剛志『日本の没落』の第五章より抜粋






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   |  四方をくまなく見渡すことは、  
   |  際限のない進歩の暗示だったんだ!  
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  「な・・・・なんだってー!!」
   (; ・`д・´)   (`・д´・ (`・д´・ ;)


※ なんかずっと続けていけそうですが、
  日本没落とシュペングラーをこよなく愛する男のことは、
  もう放っておきましょう。




 さらにシュペングラーは、ギリシャ・ローマ文化を西洋文化の起源とし、古代と中世及び近代を連続体とみなす歴史観をも拒絶した。ギリシャ・ローマ文化と西洋文化とは連続するものではなく、まったくもって別物だというのである。


 ちなみに、シュペングラーは、近代日本は西洋文明に属するものとしている。彼は、現代の中国など台頭する非西洋諸国も、西洋文明に属するものとみなしたであろう。

中野剛志『日本の没落』の第一章より、ともに抜粋



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   |  話は聞かせてもらったぞ!  
   |  ギリシャ・ローマ文化は、  
   |  西洋文化ではなかったんだ! 
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  「な・・・・なんだってー!!」
   (; ・`д・´)   (`・д´・ (`・д´・ ;)



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   |  さらに、            
   |  近代日本は東洋文明ではなく、
   |  西洋文明に属するものだったんだ! 
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  「な、な・・・・なんだってー!!」
   (; ・`д・´)   (`・д´・ (`・д´・ ;)


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   |  さらに、なんと驚くべきことに、 
   |  現代の中国も東洋文明ではなく、 
   |  西洋文明に属するものだったんだ!
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  「な、な、な・・・・なんだってー!!」
   (; ・`д・´)   (`・д´・ (`・д´・ ;)




 本書は、欧米の安楽死事情の取材を通じて、死に方の思索を深めていくノンフィクションです。多様な面からアプローチがなされており、とても有意義な良書と言えるでしょう。強くお勧めできます。
 できるだけ冷静に取材を進める著者の態度に敬意を表しますが、日本での事例の際の彼の記述には、少なくない違和感を覚えました。


怯える視線からも、血圧測定のために、そこにいたのではないのは明らかだった。いつから、話を聞いていたのかも分からない。私は、この家族の平穏を奪っている。彼女の表情を見ながら、こうした「直撃」の残酷さに唇を噛み締めたが、彼と家族の半生すべてを物語っているこの光景を、私は、世の中に伝えるべきだと思った。たとえ彼に、「メディアの特権」、「無意味な正義」と叩かれようとも......。



 日本での取材、その事件の事例については、やりきれなさを感じます。彼らは悪くないにも関わらず、理不尽にも苦しんでいる、苦しまされている、と感じられるからです。そこには、法整備の問題と、マスメディアの問題がやはりあるのだと思われます。苦痛を紛らわせるための処置に対しては、その結果についても寛大な対応が必要だと思われてなりません。

 また、著者は〈欧米と日本の価値観が根本的に違う〉ことを述べていますが、私はそれほど価値観の違いを感じませんでした。少なくとも、本書の登場人物たちの言い分は、どなたのものも理解できるからです。その上で、態度の表明が要求されることになります。


集団に執着する日本には、日常の息苦しさはあるが、一方で温もりがある。  生かされて、生きる。そう、私は一人ではなかった。周りの支えがあって、生かされている。だから生き抜きたいのだ。長年、見つけられなかった「何か」が、私の心に宿り始めた。この国で安楽死は必要ない。そう思わずにはいられなかった。



 著者はこういった解答に至っていますが、本書を読んだ私は、日本では、そして他国においても、安楽死や尊厳死と呼ばれる死のあり方が許容されるべきだと考えています。しかも、条件をさらに緩和するべきだと考えています。




 そして、この四半世紀に及ぶ改革騒動の間、数々の政治的変動や制度・統治機構の改革にもかかわらず、いやむしろ、それゆえに日本は政治的にも経済的にも凋落の一途を辿ってきた。日本が、シュペングラーの予言した没落の運命に入っているのは明白であろう。

中野剛志『日本の没落』の第三章より抜粋



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   |  話は聞かせてもらったぞ!
   |   日本は没落する!   
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   |  このシュペングラーの  
   |  『西洋の没落』こそ、  
   |  日本の没落を予言した本 
   |  だったんだよ!!    
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  「な、な・・・・なんだってー!!」
   (; ・`д・´)   (`・д´・ (`・д´・ ;)



<21世紀のノストラダムスの大予言(涙)>


 シュペングラーの『西洋の没落』を参照した、中野剛志が描く『日本の没落』を読んでみました。結論から言うと、本当にあの中野剛志かと疑うほど酷い内容でした。とても『富国と強兵』と同じ作者とは思えません。まあ、文体や細かい記述から、同一人物なのは間違いないのですが...。

 シュペングラーの『西洋の没落』は分量が多く、大言壮語かつ誇大妄想で、どうとでも捉えることができてしまうような代物です。そのため、勝手な解釈を繰り広げることで、シュペングラーの予言が当たったと言えてしまう、ということです。でも、この仕組みって、ノストラダムスの大予言と同じですよね。年代的に、あの大予言のバカ騒ぎを聞いてきた私(1981年生)としては、その二番煎じにはうんざりしてしまいます。

 中野は第八章で、次のように述べるに至っています。



はなはだ遺憾なことではあるが、我々が、百年前にシュペングラーが予言した没落する世界の只中にいるということは、ほぼ間違いがなさそうである。前章までの検証は、彼の「歴史を前もって定めようという試み」がおおむね成功を収めたことを示している。



 誠実に述べておくなら、シュペングラー云々を除けば、本書の内容はかなりまともです。例えば、ダグラス・マレーの『The Strange Death of Europe(ヨーロッパの奇妙な死)』(邦訳が出てほしい!)を参照した移民問題や、第七章の「信用貨幣論」や「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)」はきわめて重要です。しかし、それらをシュペングラーと無理やり結び付けて論じてしまっているので、うさん臭さが半端ないのです。

 その詐欺的なテクニックを一つ取り上げてみましょう。



西洋の「時間」の観念がなければ、信用貨幣は成立し得ない。信用貨幣は、まさにファウスト的魂の産物なのである。

 そこで思い出すのが、ファウストの最期である。ファウストは「時よ、とどまれ」と口走ったために死んだ。時間が止まるということは、ファウスト的魂の死を意味する。それは同時に、信用貨幣があり得なくなるということでもある。信用貨幣が成り立ち得なければ、それを基礎としてきた近代資本主義経済も、不可能となる。ファウストが、メフィストフェレスとの間で、時間と魂を賭けの対象にしたことの象徴的な意味の深さが改めて分かるであろう。



 ここで「時間」を、〈西洋の「時間」の観念〉に限定して論じていることに疑義を呈しておきますが、それよりも問題なのは、ここの強引な論述です。ここの異常さを分かりやすくするために、「信用貨幣」を「○○」に、「近代資本主義経済」を「××」に置き換えてみましょう。



西洋の「時間」の観念がなければ、○○は成立し得ない。○○は、まさにファウスト的魂の産物なのである。

 そこで思い出すのが、ファウストの最期である。ファウストは「時よ、とどまれ」と口走ったために死んだ。時間が止まるということは、ファウスト的魂の死を意味する。それは同時に、○○があり得なくなるということでもある。○○が成り立ち得なければ、それを基礎としてきた××も、不可能となる。ファウストが、メフィストフェレスとの間で、時間と魂を賭けの対象にしたことの象徴的な意味の深さが改めて分かるであろう。



 いかがでしょうか?

 あなたが主張したい概念を「〇〇」に、「○○」の基礎になると思われる概念を「××」に入れてみてください。そうすると、上記の文章では、大抵の言葉が該当することが分かるでしょう。それもそのはずです。時間と無縁な概念など、まずありえないからです。つまり、中野はここでシュペングラーの予言のすばらしさを説いているのでしょうが、その実は、どうとでも解釈できることを、無理やり都合の良いように論述し、教祖シュペングラーをまつりあげる敬虔な信者と化してしまっているのです。

 というわけで、本書の題名は『日本の没落』ではなく、『シュペングラーの大予言』が相応しいでしょう。



 終章の〈レーヴィットの日本批判〉にも苦情を述べておきましょう。中野は、哲学者カール・レーヴィットの論文『ヨーロッパのニヒリズム』を持ち出して引用します。



ヨーロッパの精神と対照をなすものは、それゆえ、境界をぼやけさせる気分による生活、人間と自然界との関係における、感情にのみ基礎を置いているがゆえに対立のない統一体、両親と家族と国家における、批判を抜きにした絆、自分を明示せず、あらわにしないこと、論理的帰結の回避、人間との交際における妥協、一般に通用する因襲的遵守、仲介の間接的な組織等である。



 このレーヴィットの見解に対し、中野は〈このレーヴィットの日本批判は仮借のないものだが、しかし真実を突いていることは否めない〉と言ってしまうのです。

 私も、筑摩書房の柴田治三郎訳『ヨーロッパのニヒリズム』を読んでみたことがありますが、具体性を欠いた抽象的な文言が並んでいるだけでした。抽象的な批判を羅列しているので、たいていの人は心当たりがあるのは当たり前の話です。このレーヴィットの日本批判を持ち出すのは、きわめて恥ずかしいことだと私には思われます。

 なぜなら、この日本批判はホストの手口と似ているからです。ホストは客の女性に対し、誰にでもあてはまるような抽象的な言葉を紳士ぶって投げかけます。ホストに行くような女性は、その言葉を真に受けて、本当の私を分かってくれていると思うわけです。それは、誰にでも当てはまるような中身のない(具体性のない抽象的な)言葉でしかないのですが...。

 レーヴィットによるヨーロッパ的な自己批判を持ち出して日本を非難する者は、自分だけは、ヨーロッパ的な批判精神を持っていると思っているのでしょう。あたかも、ホストに君だけは特別だと言われて、舞い上がってしまう女性のように。



 ただ、繰り返しになりますが、今までの中野の著作を読んできた者としては、今回の『日本の没落』が如何に酷かったとしても、今後に期待したいという想いがやはりあります。次回作は、きちんとしたものを期待したいです。



 最後に、シュペングラーへの評価として、本書とは違い参考になる文章を引用しておきましょう。私が尊敬するヨハン・ホイジンガの言葉(『ホイジンガ選集3』内の「天使と闘う二人」から)です。



我々はシュペングラーを読んで感嘆するが、この感嘆は決して共感にはならない。「我々は冷酷を必要とする。」それは、歴史が我々に教える最大の教訓であろうか。たぶん――自分が大変賢明であるので、同じ人間仲間の歴史のなかには、究極の無駄しか見いだしえないと考える者にとっては――そうであろう。