2018年8月アーカイブ

 本書は『存在と時間 哲学探究1』の続編ですが、こちらだけ読んでも問題ないようです。ただし、難易度は高めでしょう。質の高い議論が為されていますが、読者によって興味深く感じられる箇所はそれぞれに異なることでしょう。そもそも全般的に意味不明と感じる人もいれば、全体を通して面白いと考える人もいるでしょう。



 私が感動した議論の一つに、第4章のルイス・キャロルのパラドックスに対する新たな解釈があります。一般的に、このパラドックスは、推論規則を他の命題と同じレベルで並べることができない教訓として考えられているようですが(それはそれで素晴らしい解釈ですが)、永井は別の読み取り方を提示します。それは、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまう(それゆえアキレスは亀をどうしても引き離せない)、という解釈です。この読み取りは、凄まじいです。この解釈を提示したというだけで、哲学者として一流だと見なし得るでしょう。

 ここで永井は、「現実性記号」のようなものを作ってみても無駄だと述べています。亀はそれ(現実性記号)を可能な現実性として読み続けるであろうから、というわけです。しかし、これには異論がありえるでしょう。

 ルイス・キャロルのパラドックスを、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまうことだと解釈するなら、少なくとも3パターンの亀の存在が考えられるでしょう。「現実性記号」の追加により納得する亀1。現実性記号を可能な現実性として読み続ける(永井の想定する)亀2。現実の命題が端的に与えられることで、つまり〈命題〉により、納得する亀3。これらの3つの亀が考えられるでしょう。さらに、これら3つの亀のそれぞれに対し、他の選択を理解できない亀と、他の選択を理解できる亀といった分割が可能になるでしょう。その上で、それぞれの亀が何を意味しているかを、読者は理解する必要があると思われます。



 また、第9章の「ものごとの理解の基本形式」として、カテゴリーが提示されているところも凄まじいです。アリストテレスやカントのカテゴリーの具体的内容はおかしいと思いますが、ここで永井によって提示されている様相・人称・時制に対しては、今のところ反論が思い浮かびません。カテゴリーは語れないという魅力的な見解を超えて、具体的に説得的なカテゴリーを提示しているところは、やはり凄まじいです。




 前号では、編集委員会を通していないと明言された富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』と、編集委員会を通したであろう佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』が掲載されました。

 ですから、本号についての私の関心は、佐藤の見解について誰か公式に意見(同意、異論、反論など)を表明するかどうかでした。結果的に、「投稿 読者からの手紙」を含め、誰も何も反応しなかったということになりました。

 もはやこの『表現者クライテリオン』は、前身誌の『発言者』や『表現者』の理念を踏みにじったものに堕ちてしまったと見なし得るでしょう。それにも関わらず、今回が「特集 ポピュリズム肯定論」ということもあり、ところどころに西部邁の名前を出して利用しているわけです。踏みにじった人物でも、利用できるなら利用するその姿勢は呆れます。

 特に、佐藤健志による西部邁の利用は驚嘆すべき水準に達しています。私が問題としている前号の佐藤の記述と、今号の佐藤の記述を引用してみましょう。



<前号の佐藤健志>

 弟子に雑誌を引き継がせながら、それを意図的につぶそうとしたのです。
 思想以前に、人間としてのモラルが破綻していると批判されても仕方ないんじゃありませんかね?



<今号の佐藤健志(192頁)>

 西部邁さんにならって、こう応じることにしましょう。

 「まったく、だから戦後のジャップってのは!」



 常軌を逸していますね(笑)。前号と前々号の記述から、藤井聡と佐藤健志の評価は以前の感想で書いたとおりです。

 もちろん、本誌の一執筆者にまでこの問題について責めるのはお門違いでしょう。ただし、編集委員には責任があるでしょう。柴山桂太、浜崎洋介、川端祐一郎については、藤井や佐藤と同意見か、保身のため沈黙しているか、どちらかなのでしょう。

 141頁で藤井は偉そうに次のように述べています。



 要するに彼らは馬鹿なわけです。つまり、我が国の政治家や知識人はほとんど、馬鹿か臆病のいずれか、あるいは双方なのです。



 この表現をならって、次のように述べておきましょう。



 要するに彼らは卑劣なわけです。つまり、本誌の編集委員はほとんど、卑劣か臆病のいずれか、あるいは双方なのです。



 さて、本誌が前身誌までと理念を別にするものだという理解から、後は好き勝手にクライテリオン(基準)を述べていけばよいでしょう。例えば、死者に口なしを大いに利用するとか。そんな本誌が、今後どうなっていくのか、別の意味で楽しみではあります。



《過去の感想》
『表現者criterion 創刊号』感想
『表現者クライテリオン 2018年5月号』「西部邁 永訣の歌」の感想
『表現者クライテリオン 2018年07月号(改題1号)』