本書は『存在と時間 哲学探究1』の続編ですが、こちらだけ読んでも問題ないようです。ただし、難易度は高めでしょう。質の高い議論が為されていますが、読者によって興味深く感じられる箇所はそれぞれに異なることでしょう。そもそも全般的に意味不明と感じる人もいれば、全体を通して面白いと考える人もいるでしょう。
私が感動した議論の一つに、第4章のルイス・キャロルのパラドックスに対する新たな解釈があります。一般的に、このパラドックスは、推論規則を他の命題と同じレベルで並べることができない教訓として考えられているようですが(それはそれで素晴らしい解釈ですが)、永井は別の読み取り方を提示します。それは、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまう(それゆえアキレスは亀をどうしても引き離せない)、という解釈です。この読み取りは、凄まじいです。この解釈を提示したというだけで、哲学者として一流だと見なし得るでしょう。
ここで永井は、「現実性記号」のようなものを作ってみても無駄だと述べています。亀はそれ(現実性記号)を可能な現実性として読み続けるであろうから、というわけです。しかし、これには異論がありえるでしょう。
ルイス・キャロルのパラドックスを、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまうことだと解釈するなら、少なくとも3パターンの亀の存在が考えられるでしょう。「現実性記号」の追加により納得する亀1。現実性記号を可能な現実性として読み続ける(永井の想定する)亀2。現実の命題が端的に与えられることで、つまり〈命題〉により、納得する亀3。これらの3つの亀が考えられるでしょう。さらに、これら3つの亀のそれぞれに対し、他の選択を理解できない亀と、他の選択を理解できる亀といった分割が可能になるでしょう。その上で、それぞれの亀が何を意味しているかを、読者は理解する必要があると思われます。
また、第9章の「ものごとの理解の基本形式」として、カテゴリーが提示されているところも凄まじいです。アリストテレスやカントのカテゴリーの具体的内容はおかしいと思いますが、ここで永井によって提示されている様相・人称・時制に対しては、今のところ反論が思い浮かびません。カテゴリーは語れないという魅力的な見解を超えて、具体的に説得的なカテゴリーを提示しているところは、やはり凄まじいです。