前号では、編集委員会を通していないと明言された富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』と、編集委員会を通したであろう佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』が掲載されました。
ですから、本号についての私の関心は、佐藤の見解について誰か公式に意見(同意、異論、反論など)を表明するかどうかでした。結果的に、「投稿 読者からの手紙」を含め、誰も何も反応しなかったということになりました。
もはやこの『表現者クライテリオン』は、前身誌の『発言者』や『表現者』の理念を踏みにじったものに堕ちてしまったと見なし得るでしょう。それにも関わらず、今回が「特集 ポピュリズム肯定論」ということもあり、ところどころに西部邁の名前を出して利用しているわけです。踏みにじった人物でも、利用できるなら利用するその姿勢は呆れます。
特に、佐藤健志による西部邁の利用は驚嘆すべき水準に達しています。私が問題としている前号の佐藤の記述と、今号の佐藤の記述を引用してみましょう。
<前号の佐藤健志>
弟子に雑誌を引き継がせながら、それを意図的につぶそうとしたのです。
思想以前に、人間としてのモラルが破綻していると批判されても仕方ないんじゃありませんかね?
<今号の佐藤健志(192頁)>
西部邁さんにならって、こう応じることにしましょう。
「まったく、だから戦後のジャップってのは!」
常軌を逸していますね(笑)。前号と前々号の記述から、藤井聡と佐藤健志の評価は以前の感想で書いたとおりです。
もちろん、本誌の一執筆者にまでこの問題について責めるのはお門違いでしょう。ただし、編集委員には責任があるでしょう。柴山桂太、浜崎洋介、川端祐一郎については、藤井や佐藤と同意見か、保身のため沈黙しているか、どちらかなのでしょう。
141頁で藤井は偉そうに次のように述べています。
要するに彼らは馬鹿なわけです。つまり、我が国の政治家や知識人はほとんど、馬鹿か臆病のいずれか、あるいは双方なのです。
この表現をならって、次のように述べておきましょう。
要するに彼らは卑劣なわけです。つまり、本誌の編集委員はほとんど、卑劣か臆病のいずれか、あるいは双方なのです。
さて、本誌が前身誌までと理念を別にするものだという理解から、後は好き勝手にクライテリオン(基準)を述べていけばよいでしょう。例えば、死者に口なしを大いに利用するとか。そんな本誌が、今後どうなっていくのか、別の意味で楽しみではあります。
《過去の感想》
・『表現者criterion 創刊号』感想
・『表現者クライテリオン 2018年5月号』「西部邁 永訣の歌」の感想
・『表現者クライテリオン 2018年07月号(改題1号)』
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