岡崎久彦と長谷川三千子さんの対談本です。この二人の対談ということで大変驚きました。9・11テロを巡る論争の中で、岡崎は親米保守、長谷川さんは反米保守とレッテル張りされていて、立場はかなり違うんですよね。
ちなみに岡崎は、平成14年9月14日の産経新聞のインタビューで、〈世界史的な『アメリカ帝国』ができようとしている〉とか、〈日本にとって、米国のイラク攻撃指示は非常に率のいい賭けだ〉とか言ってるんですよね。実際の歴史はどうだったか? 恥を知っていたら、もう本なんか出せないはずなんですがね。
本書の内容に踏み込むと、岡崎は〈民主主義に対するアンチ・テーゼというものは無いのだから、これ以上歴史が発展するはずがなく民主主義が最終到達点だということになる(p12)〉と言っています。それなのに、タイについては〈プラトンの哲人政治をやっているんだ(p115)〉と述べています。それなら、プラトンの『国家』を読んでいるはずですが、そこに民主政に対する批判的意見がたくさん書かれていることに気付かなかったのでしょうか?
プラトンの哲人政治は、例えばカール・ポパーがそれなりに妥当な批判を行っています。しかし、プラトンの民主政批判に対するまともな反証は見たことがありません。プラトンに限らず、アリストテレスやバークなども民主政には一定の批判を加えています。バークに依拠して保守を唱えるなら、それらの批判を無視して進むのはいただけません。
岡崎は民主主義について、〈ほかの政治体制よりはまだましである。それが世界に広がって、それで何とかなっているから、もうこれしかないのだと。(p193)〉と述べています。さらには、〈是非善悪ではない、時流であり歴史が作ったものであるという判断であり、それこそバークをはじめ全ての保守主義者に共通する利益です。(p196,197)〉とまで述べています。この人は、いったい何を言っているのでしょうか? バークをちゃんと読んだんでしょうか? バークは『フランス革命の省察』において、〈完全な民主政治とはこの世における破廉恥の極みにほかなりません。〉とか、〈私は民主政憲法を最も多く見て最も良く理解した著者達についてまったく読んでいないという訳でもないので、絶対的民主政は絶対的王政に劣らず正統な統治形態には数え難いという彼らの意見に同意せざるを得ません。〉と述べているのですよ。なぜ、平気で嘘を吐くのか理解に苦しみます。
ちなみに長谷川さんは、〈おっしゃるような「民主主義が広がっていく世界の趨勢を受け入れたこと」が日本の民主主義の特色だとしたら、そんなものは「素性の良さ」でもなんでもない。ただの欧米追従――ほとんど精神的植民地主義とも言うべきものではないですか。(p197)〉と、ちゃんと批判しています。
また、岡崎はGHQに対し、〈初期占領政策として、論理的整合性があったことは事実です。(p272)〉と言い、長谷川さんに〈これは決して「論理的整合性があった」わけではないのですよ。それどころか、まさに論理矛盾そのものなのです。(p274)〉と正しく批判されています。
他にも岡崎の意見でおかしいところはたくさんあるのですが、いちいち指摘してもキリがないのでこのへんで止めておきます。
長谷川さんは、対談相手を選んだ方が良いと思います。長谷川さんの単著を期待しています。
佐伯啓思さんの『自由と民主主義をもうやめる』を読みました。何回も読みました。その上で、おそらく誰もしないであろう角度から、批判を行いたいと思います。
まず、この題名は正確ではありません。P225に、〈「自由」と「民主主義」を無条件にりっぱなものだとして祭り上げるのをやめようということです〉とあります。P72には、〈民主主義や個人の自由も、基本的には大事だと思っています。そんなことはわざわざ言うまでもないでしょう〉とまで、佐伯さんは述べています。基本的には大事なものをやめる人はいません。すなわち、『自由と民主主義をもうやめる』という題名にも関わらず、佐伯さんは、自由と民主主義をやめてはいないのです。
P227で佐伯さんは、〈本書は「自由や民主主義をやめる、などとんでもない」と思っている人に読んでもらいたいのです〉と述べています。そういう人は、安心してください。自由や民主主義を無条件にりっぱだと思うことはなくなるかもしれませんが、本書には自由や民主主義をやめるだけの理由は示されていません。
ですから、本書に対して不満を持つ者は、「自由と民主主義をやめる、なんて当たり前じゃないか」と思っている人なのです。民主主義や個人の自由など、基本的に大事なものではないと思っている人は、本書とは異なる地点に立つことになります。例えば、私のように。
日本の精神史を省みるならば、自由も民主主義も、基本的にはいかがわしい考えだと分かると思うのですが・・・。
哲学者の適菜収さんの『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』が面白かったので、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』も読んでみました。
思わず笑ってしまったところを紹介します。p84には、〈『東京すし通読本』というデタラメな本を偶然読んだのですが、「つまみの魚と酒少々で引き上げる、潔くイキな客もいる」などと書かれていました。これでは、ラーメン屋に行ってナルトとメンマだけ食って帰るようなものでしょう。死ねばいいのに。〉とあります。p100には、〈要するに「サンプルを聴いてアルバムを買え」というだけの話なのですが、こいつらがつくっている音楽が「新しい音楽」なら、今すぐに絶滅してもかまわないと正直思いました。〉とあります。いや~、見事なつっこみですね。
見事な指摘という点では、p101の〈オリジナルは幻想にすぎません。近代は、オリジナルは幻想であると知りながら、オリジナルを主張することが商売になるという分裂した時代です。〉が挙げられます。
民主主義に対する指摘も的確で、p141には〈「民主」という言葉が最初に来ると、そこでピタリと思考が停止するのです〉とあります。私も、そんな人たちをどれだけ見てきたことでしょうか。p142では、〈民主主義と議会主義の混同が見られますが、とにもかくにも、今や民主主義はまるで人類の理想の政治システムでもあるかのように奉られるようになった。「世界中を民主化しなくてはならない」と考える人が増えているのです〉とあり、〈B層社会では「大きな嘘」がまかり通ります。人類は民主主義のために戦い続けたのだと。本当は逆ですよ。人類の知性は、民主主義と戦い続けてきたのです〉とあります。実に素晴らしいですね。今の日本には、民主主義万歳という変態ばかりなので、こういうまともな意見をみるとホッとしますね。
ウィンストン・チャーチルの民主主義に対する見解についても、p144で〈その言葉は皮肉屋チャーチルにふさわしくない。これまで人類の知性が示してきたのは、やはり民主主義は「最悪の政治形態」であるということです〉と指摘されています。私は、民主主義が最悪の政治形態とまでは思いませんが、数ある政治形態の中でも最低レベルのものだとは考えています。その点で、チャーチルは馬鹿だと思います。
さらに抜群の意見として、p148に〈現在では「議会制」と「民主主義」は、まるで同義語のように扱われていますが、選択原理が働く「議会制」が「貴族政」の亜流であることは政治学の常識です。そもそも議会は階層社会において成立しています〉とあります。まったくその通りですね。「議会制」と「民主主義」を結びつけたのは、J・S・ミルの『代議制統治論』の影響が強いと思われます。議論の緻密さではなく、口当たりの良い間違った意見が、世の中に浸透してしまう困った例ですね。何が正しいのかを見極め、歴史に学んで物事を判断するという基本がなおざりにされていると感じました。
ちなみに私は、もちろん民主主義などではなく、政治形態としては混合政体を推しています。