2013年4月アーカイブ

『表現者48』

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 『表現者48』のテーマは、<「保守」その本質を問う>です。座談会が2つあり、両方とも読み応えがありました。座談会についてコメントしてみます。

<特集座談会 保守思想が包括すべきもの>
 柴山桂太さんが設計主義との関わりで、ハイエクについて述べています。まず、〈二十世紀の思想家で設計主義批判を大々的にやったのはハイエクですね〉と言い、〈ハイエクの設計主義批判は、逆から見るとアナーキズムに近いところがある〉と述べています。〈ハイエクは政治とか設計の根っこにある人間の想像力を、軽視しすぎたんじゃないか〉というわけです。
 この意見は秀逸なのですが、「逆から見ると」というところを、「順当に見ると」に変えてみると、ハイエクは「設計主義に近いところがある」とも言うことが可能です。ハイエクの『自由の条件』には、〈われわれの文明を変化させている思想はいかなる国境をも考慮しない〉とありますし。そうすると、ハイエクは設計主義批判の設計主義者になるわけです。
 ここで問題なのは、ハイエクを設計主義的であると批判する立場も、やはり設計主義の要素を抱え込まざるをえないという点です。ですから設計主義批判は、設計主義そのものではなく、もっと違う何らかの根拠を必要とするのですよね。保守は設計主義に反対というだけでは、論理が不十分だと思うのです。
 本号では、各人が保守について論じていますが、その根拠を暗示するレベルに達している論考と、単に保守についての定型句で終わっている論考があると感じました。

<座談会 「無」について>
 この座談会は、西部さんと佐伯さんの意見の相違が際立っていて大変面白かったです。ですが、この座談会だけを読んで、読者が西田哲学の「無」を理解できるかというと、それは無理な気がします。西田哲学における「無」を考えるための参考文献としては、永井均さんの『西田幾多郎(NHK出版)』が個人的にはお勧めです。永井さんは〈自覚において有は無化され、言語において無は有化される〉と述べています。佐伯さんは自覚(に近い方向)において語っており、西部さんは言語において語っているため、互いの意見がかみ合っていないのだと感じました。
 あと、間違っていたらごめんなさいなのですが、佐伯さんは西田幾多郎の言う「無」と「無心」の相違にいささか鈍感であり、「無心」を西田哲学の「無」として論じているように感じられました。西田の「無」は意識と世界の神秘を解く鍵であり、「無心」は日本思想に関わっています。
 「無」は、例えば『自覚について』では、〈絶対有の自己限定の形式は、即ち絶対無の自己限定の形式である、有即無であるのである〉とあります。『私と汝』では、〈真の絶対無の限定と考えられるものは、単に周辺なき円という如きものではなくして、その到る所が中心となるものでなければならぬ〉とあります。『場所』では、〈無より有を生ずる、無にして有を含むということが、意識の本質である〉とあり、〈真の意識の立場は最後の無の立場でなければならぬ〉とあります。さらに、〈述語面が主語面を離れて見られないから、私は之を無の場所というのである〉となり、〈潜在として有に包まれた無は、真の無ではなく、真の無は有を包むものでなければならぬ、顕現ということは真の無に於てあるということである〉となるのです。ですから、この「無」は、日本とかは関係なく、意識と世界の神秘を端的に示しているわけです。
 一方、「無心」については、『日本文化の問題』で、〈己を空(むなしゅ)うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う〉と語られています。〈すべての者を綜合統一して、簡単明瞭に、易行的に把握しようとするのが日本精神である。それが物となって見、物となって行う無心の境地である、自然法爾の立場であるのである〉とも語られています。
 ですから、「無」の場所において、「無心」の境地によって日本精神が現れると理解すべきだと思われます。

 西部邁さんの『実存と保守』を読みました。ところどころ心に響く表現があったのでコメントしていきます。

<p.50>
 そのとき少年は、孤独というものの正体をわかったような気がした。それは、寂しさといったような感情を一切排除するような、「この宇宙にいるのは自分一人」という客観のことなのであろう、と察知したのである。それに続いて、広い宇宙を「罪には罰」といったような戒律がこれまた客観として貫いているのであろうとも感じた。つまり、一種宗教的な感覚が少年の幼い心に湧いたのである。

→ 後者の宗教的な感覚については、半分くらいは分かるような気がします。前者の孤独については、深い共感を覚えます。自分一人という客観の主観に共感を覚えるという、不思議な感情が生まれました。

<p.66>
 少年たちがそうしたのは、ちょっと仰々しくいってみると、狭い了見しか持てぬ限界状況での彼らなりの本源的な振る舞いとしてであった。本来的であろうとする姿勢を状況のなかで実例化されると投石しかなかったのだ。その石礫の一つひとつに彼ら幼い者たちの感情や理屈が精一杯まで盛り込まれていたといってよいであろう。

→ ある程度の美化はあると思われますが、このように言っておかねばならぬという気持ちは大切なのだと思います。あのときのあの行動には、自分なりの意味があったのだという、(知識量を増やした後での)後付の理由付けは、人間が人格を構築していくという営みの一つなのだと思います。

<p.69>
 老人は、緒戦で日本軍が圧勝したとき、四十歳になろうとする老年兵や十八歳かそこらの少年兵を掻き集めた硫黄島守備隊が歌謡曲「旅の夜風」を合唱したというのをある書物で読み、思わず落涙しそうになった。

→ ここには深い感受性が示されています。悲劇的な状況において、人間はその悲惨な境遇で物語りをつむぎます。そこにおいて人間が偉大であることの可能性が示され、それがある一定以上の感受性(それは最低限の礼節と同値のものです)を持った者の心に響くのです。

<p.70>
 ただ、「祖国の女や子供を守るため」という名分で(戦ったというより)火焰放射とダイナマイトで殺戮され尽くす運命を引き受けた兵士たちに「英(すぐ)れた霊」の名目を与えてやらなければ、どんな価値観も虚しくなる、と彼は考えただけのことである。

→ まったく同感です。本書を読んだ彼も、そう考えただけのことである。

<p.90>
 つまり異文化と接することからくる感覚と知覚の揺れは、この男にとって貴重なものであったといえるのだろう。その揺れの結果として、おのれの繋がるべきオーソドキシー(正統)は何か、それは宿命的に日本というものなのだ、とこの男は得心したのである。

→ それを読んだ私も得心したのである。

<p.111>
p111
 彼が老人期に入ってから、アメリカのイラク侵略が始まった。老人は、同調者がほとんどいないと想像・予想・予測しつつも、その侵略に加担する日本政府と九・一一テロ反対ということでまとまっている世論・言論・理論に逆らうことに心を決めていた。

→ このことが、どれだけ偉大なことであったか。この偉業は、強調してもし過ぎることはありません。この点一つを取っても、西部邁という思想家が、まともという意味でどれだけ偉大であるかが分かるというものです。

<p.163>
 道義が具体的に何であるかを知るのには、時代と人生の状況との何らか持続性を有した経験が必要と思われる。で、「武士道に殉じて死ぬという最も好きなことを実際に行うのにも、状況を見極めなければならないので、時間と経験が必要だ」ということになる次第である。

→ その通りなのですが、時間と経験を猶予されているという状況が、自身では如何ともし難い難問なんですよね。そのため、『葉隠』の思想に歩を進めた者は、特攻という思想にも向かわざるを得なくなるのです。特攻という事実により、私は、「時間と経験が必要だ」と声高に唱えることに、若干の抵抗を覚えてしまうのです。

 

『式の前日』

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 穂積さんの『式の前日』を、『漫画は思想する』に追加しました。
 良かったら見てください。

 

 『哲学の密かな闘い』は、永井均が最近数年間に書いた論文を集めたものです。
 本書については色々なことが言えると思います。本書をただ読むのではなく、本書における永井均の意見について考えることで、哲学することができかもしれません。例えば、本書の導入部の記述について、私なりに哲学(もどき)をしてみようと思います。
 「人生」における「悩みのレッスン」について、永井は次のように語っています。

 

 変な比喩ですが、真っ暗な宇宙の中に一台のテレビだけがついているさまを思い浮かべてください。テレビの番組が社会にあたり、テレビがついていることが生きていることにあたります。どの番組も全然つまらないかもしれません。これから始まる番組が面白いという保証もありません。でも、テレビそのものを消してしまえば、ただ真っ暗闇です。もう一度つけることはもうできないのです。番組の内容とテレビがついているということは、実は別のことです。ですから、「なぜ生きているのか」という問いは、番組の中身を超えた問いなのです。
 番組のつまらなさが、テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合もありうるでしょう。それでも、つまらない番組を見ないために、その世界の唯一の光を、無限に時間の中に与えられた唯一の例外的な時を、抹殺してしまってよいでしょうか。それは一種の「越権」ではないでしょうか。
 これが、人が生き続ける理由だと思います。

 

 ここの言説には、思わず頷いてしまいそうになる説得力があります。ですが、ここで一文一文をしっかりと見ていくと、間違い、もしくは嘘が含まれていることが分かります。
 番組の内容とテレビがついているということは、確かに別のことです。この差異を考慮して答えるなら、「なぜ生きているのか」という問いは、番組の中身を超えた、番組の中身における問いだということが分かります。「テレビがついていること」という「番組の内容」における問題なのです。
 永井は「テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合」を示しながら、「越権」を提示するという無理のある論理を展開しています。なおかつ、それを、「人が行き続ける理由」だと述べています。
 間違っています。それが「越権」であるのは、「テレビがついていること自体の輝き」を最高位に置いている人物にとってのみなのです。「テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合」がありふれていることを知っている人にとっては、それは「越権」ではありえないのです。永井は、ここで永井の言う意味での「哲学」ではなく、永井均の宗教を語ってしまっているのです。
 「テレビがついていること自体の輝き」を「人が生き続ける理由」に結び付けてしまうことは、哲学的に間違っていますし、思想的には幼稚です。「テレビがついていること自体の輝き」は、「人が(現に)生きている理由」ではありますが、「人が生き続ける理由」ではないのです。それゆえ人は、自分が生き続けるために、思想における理由を探し求めるのです。
 永井の言う哲学においては、「人が生き続ける理由」を示すことはできません。それゆえ永井は、ここで、「善なる嘘」を語っているのかもしれません。そうであるなら永井は大人として意見を述べたのであり、私は幼稚にも「邪悪な真理」を語ってしまったことになります。

 

PS. 『なぜ人を殺してはいけないのか?』の永井均の文章より
 私の用語としての「善なる嘘」は、事実に反している(ことは知っている)が、それが事実であるかのように語ることで世の中がよくなるような言説のことである(その逆を「邪悪な真理」という)。