『表現者48』のテーマは、<「保守」その本質を問う>です。座談会が2つあり、両方とも読み応えがありました。座談会についてコメントしてみます。
<特集座談会 保守思想が包括すべきもの>
柴山桂太さんが設計主義との関わりで、ハイエクについて述べています。まず、〈二十世紀の思想家で設計主義批判を大々的にやったのはハイエクですね〉と言い、〈ハイエクの設計主義批判は、逆から見るとアナーキズムに近いところがある〉と述べています。〈ハイエクは政治とか設計の根っこにある人間の想像力を、軽視しすぎたんじゃないか〉というわけです。
この意見は秀逸なのですが、「逆から見ると」というところを、「順当に見ると」に変えてみると、ハイエクは「設計主義に近いところがある」とも言うことが可能です。ハイエクの『自由の条件』には、〈われわれの文明を変化させている思想はいかなる国境をも考慮しない〉とありますし。そうすると、ハイエクは設計主義批判の設計主義者になるわけです。
ここで問題なのは、ハイエクを設計主義的であると批判する立場も、やはり設計主義の要素を抱え込まざるをえないという点です。ですから設計主義批判は、設計主義そのものではなく、もっと違う何らかの根拠を必要とするのですよね。保守は設計主義に反対というだけでは、論理が不十分だと思うのです。
本号では、各人が保守について論じていますが、その根拠を暗示するレベルに達している論考と、単に保守についての定型句で終わっている論考があると感じました。
<座談会 「無」について>
この座談会は、西部さんと佐伯さんの意見の相違が際立っていて大変面白かったです。ですが、この座談会だけを読んで、読者が西田哲学の「無」を理解できるかというと、それは無理な気がします。西田哲学における「無」を考えるための参考文献としては、永井均さんの『西田幾多郎(NHK出版)』が個人的にはお勧めです。永井さんは〈自覚において有は無化され、言語において無は有化される〉と述べています。佐伯さんは自覚(に近い方向)において語っており、西部さんは言語において語っているため、互いの意見がかみ合っていないのだと感じました。
あと、間違っていたらごめんなさいなのですが、佐伯さんは西田幾多郎の言う「無」と「無心」の相違にいささか鈍感であり、「無心」を西田哲学の「無」として論じているように感じられました。西田の「無」は意識と世界の神秘を解く鍵であり、「無心」は日本思想に関わっています。
「無」は、例えば『自覚について』では、〈絶対有の自己限定の形式は、即ち絶対無の自己限定の形式である、有即無であるのである〉とあります。『私と汝』では、〈真の絶対無の限定と考えられるものは、単に周辺なき円という如きものではなくして、その到る所が中心となるものでなければならぬ〉とあります。『場所』では、〈無より有を生ずる、無にして有を含むということが、意識の本質である〉とあり、〈真の意識の立場は最後の無の立場でなければならぬ〉とあります。さらに、〈述語面が主語面を離れて見られないから、私は之を無の場所というのである〉となり、〈潜在として有に包まれた無は、真の無ではなく、真の無は有を包むものでなければならぬ、顕現ということは真の無に於てあるということである〉となるのです。ですから、この「無」は、日本とかは関係なく、意識と世界の神秘を端的に示しているわけです。
一方、「無心」については、『日本文化の問題』で、〈己を空(むなしゅ)うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う〉と語られています。〈すべての者を綜合統一して、簡単明瞭に、易行的に把握しようとするのが日本精神である。それが物となって見、物となって行う無心の境地である、自然法爾の立場であるのである〉とも語られています。
ですから、「無」の場所において、「無心」の境地によって日本精神が現れると理解すべきだと思われます。