今日は、5冊ほど本を買いました。
いろいろな本を読んでいるのですが、ここで感想を書くものは限られています。
感想を書く基準は、タイミングですね。
必ずしも良い本の感想を書いているわけでもないのです。
自分の疲労具合と、やる気と、ちょうど良いテーマと、それらがマッチしたときに感想になります。
ですから、感想を書いていない無数の良作があるわけです。
まあ、どうでもいい話ですね。
今日は、5冊ほど本を買いました。
いろいろな本を読んでいるのですが、ここで感想を書くものは限られています。
感想を書く基準は、タイミングですね。
必ずしも良い本の感想を書いているわけでもないのです。
自分の疲労具合と、やる気と、ちょうど良いテーマと、それらがマッチしたときに感想になります。
ですから、感想を書いていない無数の良作があるわけです。
まあ、どうでもいい話ですね。
以前に、『正論2018 3』の「追悼特集 西部邁の死」について論じました。
西部邁の死をめぐる、偉大と秀逸とヘッポコと卑劣(1)、(2)、(3)、(4)
上記の記事では、ヘッポコと卑劣な人物が紛れ込んでいたのが残念でした。
他の言論誌でも、西部邁の自裁について書いた記事があったので、目についたものは買って読んでみました。
『Voice 平成30年 3』
「西部邁氏を偲ぶ 「高貴」な生き方を求めた保守思想の真髄」小浜逸郎
『新潮45 MARCH 2018 3』
「追悼・西部邁 完璧な制御内にあった「自裁死」」東谷暁
『正論2018 3』
「西部邁 最後の夜」浜崎洋介
「西部邁 生まじめで気さくだった「大思想家」」榊原英資
「西部邁の酒とダンディズム、語られざる言葉」黒鉄ヒロシ
『月間Hanada 2018 4』
「追悼・西部邁 青年たちの可能性を信じ続けた教師」藤井聡
上記の記事は、どれも素晴らしいものでした。故人と親しくしていた方々が語る内容には、確かな重みが感じられました。細かいところについて指摘を入れたい欲求もありますが、それはやはり野暮というものでしょう。
偉大な思想家が死んだ後に、偉大な著書が残されています。それとどう向き合うかという課題が、おそらくは残されているのでしょう。