本書では、ニーチェの哲学についての解説がなされています。賛同できる箇所と異論がある箇所があるので、気になったところにコメントしていきます。
<p.6 はじめに>
『ツァラトゥストラ』は、超人(候補者)のための書なのであり、それを自覚している者にとってだけの書なのである。そんな強者は(ニーチェ自身を含めて)これまで地上にはいなかったし、これからもいないであろう。だから、誰のための書でもないのだ。
→ 中島は意外にも常識人であるため、ニーチェの意図から離れた地点で超人について語ってしまっています。ニーチェはある種の常識人ではなかったので、真剣に、大真面目に、超人を説いているのです。これは、実際に驚くべきことです。
ここを捉え損なうと、ニーチェを誤解するか、ニーチェに飲み込まれることになります。
<p.31 第2章 ニヒリズムに徹する>
ニヒリズムは、もっぱら「キリスト教の神が死んだ」すなわち「もともとキリスト教の神はいなかった」という衝撃に起因するはずなのだが、それを非キリスト教徒であるほとんどの日本人が大真面目に「われわれの問題」としてとらえ、しかもそこにほとんど疑いを抱かない。
→ まったくその通りです。〈われわれは「ニヒリズムの克服」などという軽口をたたくようになるのだ(p.42)〉という皮肉も正しいです。それゆえ、一部の保守主義者がいうように、保守主義によってニヒリズムを超えたり、そこから顔を出すといったことは、原理的に出来ないのです。そこが、ニーチェと対峙する際に、決定的に重要なポイントになります。
<p.33 第2章 ニヒリズムに徹する>
ニーチェを娯楽として、息抜きとして、生活の飾りとして、教養として、読むのもいっこうに構わないのだ。だが、そうなら「私はニーチェを単なる娯楽(生活の飾り、息抜き、教養)として読んだのであって、私の人生観はまったく変わらなかった」と語るべきであろう。
→ こういうことを言ってしまう人物、つまり中島は、強烈な娯楽は人生観を浸食してしまう可能性について極めて鈍感です。だから、私はこう言うのです。「私はニーチェを読み、それを娯楽の位置に留めた。よって、私の人生観は、ニーチェの哲学とは決定的に異なることを理解し、私の人生観はより良くなった(別の言い方をすれば、私の人生観はニーチェと異なることによって補強されたのだ)」と。
<p.52 第2章 ニヒリズムに徹する>
格率が定言命法に妥当するか否かは、間主観的妥当性を必要とせずたった一人で理性に問いかければいい。
→ ここは疑問が残ります。例えば、中央公論社『世界の名著39 カント』の『人倫の形而上学の基礎づけ』には、「道徳の原理を提示するための記述の三つの仕方」が以下のように示されています。
(1)汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ。
(2)汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。
(3)すべての人間意志がそれのすべての格率によって普遍的に立法する意志であるという原理
本件は、(1)だけなら間主観的妥当性は必要ありませんが、(2)と(3)を考慮すれば、間主観的妥当性は必要な条件になると思われます(この点は間違っていたら修正します)。
<p.87~88 第4章 人生は無意味である>
「誠実」という言葉を金科玉条のように祭り上げるのはやめたい。だが、ニーチェの場合、「誠実」とは神の声(キリスト教)あるいは理性の声(カント)に従って生きるという意味(これが「誠実」の伝統的・正統的意味であろう)とはおよそ異なった響きを持っている。
→ 永井均の『これがニーチェだ』には、〈むしろ神など存在しないと信じることこそが、キリスト教的に誠実な態度なのである〉とあります。また、〈キリスト教によって育てられた敬虔な無神論が生まれる〉ともあります。その上で永井は、〈私は二つの問題を感じる〉と述べて、さらに哲学的思索を進めています。そこでの洞察も素晴らしいものです。
ここでの中島の哲学的感度は、残念ながら永井より少なくとも二段階は格下だと言わざるをえません。そもそも、本書そのものが、永井の『これがニーチェだ』と比較すると・・・。いや、これ以上は言う必要はないですね。
<p.100 第4章 人生は無意味である>
ツァラトゥストラが死ななければ、彼は永遠回帰を体現できないであろう。彼が死ぬことによって、彼は「一つの生」をまっとうし、それを永遠回繰り返すという世界に入る(それを認識する)ことができるのだ。
→ これは・・・、マジですか?
ここは、完全にニーチェを読みそこなっています。こういう風に永遠回帰を捉えてしまうと、ニーチェは「最後の審判」や「天国と地獄」と同じタイプの支配システムを構築したことになってしまいます。ですから、ニーチェの永遠回帰をこのように捉えることは、ニーチェへの誠実さのために、決してしてはならないのです。
<p.111 第5章 「人間」という醜悪な者>
「神は死んだ!」というニーチェの叫び声には「騙された!」というトーンが強烈に響き渡っている(これを聞き分けない、あるいは聞き分けようとしない研究者がいることが不思議である)。
→ たしかにそうなんですが、それだけだと足りないのです。再び永井の『これがニーチェだ』を引用しますが、ここでは〈神の死がどうにかしなければならない一大事として語られている〉のです。
色々と述べましたが、意見の相違によって自身の見解を補強できたという面で、本書は読むに値しました。中島や永井の意見を参考にしつつも、ニーチェとは、ある意味において、自分の意見を持って、一度対決しておく必要があると思います。