2012年2月アーカイブ

 小林よしのりさんのゴーマニズム宣言SPECIAL『反TPP論』を読みました。
 論理は明快であり、TPPの危険性とそれに賛成する愚かさが的確に表現されています。これを読んでもなおTPPに賛成する人は、日本人の99%以上が不幸になっても、自身を含めた1%未満の人間が得をすれば良いと考えている人だけだと言えるでしょう。経団連などは、そのような人たちだけで構成されている団体なんでしょうね。自分たちが儲けたいのは分かりますが、そのためにTPPは日本のためだと嘘をつくのはやめてほしいです。といっても無理でしょうが。金のためには詐術を駆使するその姿勢は浅ましいの一言です。p.80にあるように、〈一部の経済界と、政治家と、マスコミが「私益」のために、国民を騙している!〉という現状が悲しいです。
 本書には、福沢諭吉の「立国は私なり、公に非ざるなり」の正しい解釈が示されていて嬉しかったです。また、第5章の「来島恒喜・かつて日本人にあった攘夷」は、美事の一言です。安易な解説などできない、珠玉の一品です。是非、本書を自分の目で見て確認してください。この章を否定的にしか見られない人とは、おそらくわかり合えることはないでしょう。

『表現者41』

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 本号の特集は、〈「大阪都」の反乱を許すな〉です。
 橋下徹批判そのものよりも、民主主義批判を中心に述べている論考に説得力を感じました。例えば、佐伯啓思さんの「独裁は民主政治から生み出される」の次の二つの文章は、実に説得力があります。

<p.60>
 端的に言えば、「大衆化した社会において民主主義を無条件に押し進めると政治は行き詰まる」というのが「理論」だ。大方の現代のいわゆるリベラリズムにたつ政治学者は同意しないかもしれないが、これが本来の民主主義についての「理論」というべきものであった。
<p.63>
 こうして民主主義のなかから独裁が姿を現す。何より注意しておくべきなのは、独裁政治は民主主義に対立するのではなく民主主義のなかから出現するという点である。民主主義が独裁を生む。もっといえば、民主主義という制度を通じて大衆は独裁を要求するのである。

 他には、西部邁さんの「ペリリュウで聞いた警蹕」の次の文章は、非常に感動的で素晴らしいと思います。

<p.20>
 一万二千の将兵の玉砕ぶりには、ただ一言、壮烈のきわみという平凡な形容がふさわしい。その実情を知れば知るほど、「玉砕は"生きて虜囚の辱めを受けず"という戦陣訓による教育の結果だ」という戦後の小賢しい評言は、ジャップのものであって日本人のものではないと断言せざるをえない。

 宮本又郎さんの『日本経済史(日本放送出版協会)』を読みました。
 本書を読む前に、石井寛治の『日本経済史[第2版](東京大学出版会)』と、永原慶二の『日本経済史(岩波書店)』を読んでいたので、本書の評価は甘くなっている可能性があります(笑)。マルクス主義的ではない歴史観を見ることができて、ほっとしました。
 例えば、p.23に〈歴史に学びたいことは、人口重心の地域移動は自然に生じたものではなく、先人たちの主体的な営為の結果としてもたらされたものであったということだ〉とあります。良い意見だと思います。
 p.57には、〈1945年8月15日、戦争は敗北で終わった。戦争による生産設備の喪失、生活物資難、激しいインフレという情勢のなかで、連合国軍司令部(GHQ)から要求された諸改革を推進しつつ、経済復興を図らねばならなかった〉とあります。深読みかもしれませんが、この「図らねばならなかった」という表現は、ある種の無念さがあるような気がするのです。もしそうなら、無念を無念として感じられるという、歴史に向き合う大切な姿勢が感じられる本だと言えます。
 また、p.70の、〈1911年には、明治政府の悲願であった幕末以来の不平等条約のうち最後まで残されていた関税自主権が完全に回復された〉という表現もいいですね。
 本書では、日本型経済システムにも肯定的な評価が語られています。全体的に、バランス良く書かれた良書だと思います。
 永原慶二の『日本経済史(岩波書店)』を読みました。
 本書を読む前に、石井寛治の『日本経済史[第2版](東京大学出版会)』を読んでいました。そのため、p.6の〈日本の経済史をめぐる研究では、たとえば、"荘園制社会は家父長的奴隷制社会である"というように、一つの経済社会の認識を、基本的ウクラードの把握に収斂させてとらえることを究極目標とする傾向が根強く存在する。もとより基本的ウクラードの確定は経済史認識によってもっとも大切な事柄であるが、そのような基底還元的な方向だけでは、豊富な内容をもつ具体的な日本経済史の総体把握が十分な形で達成されないことも明らかである〉という文章から、期待して読み進めました。しかし、期待は裏切られました。
 本書には、たとえば、p.33に〈日本最初の階級社会は総体的奴隷制社会と規定すべきであろう〉とあり、p.60に〈かれらは自由な私的土地所有者として成長したのではなく、アジア的古代専制国家体制に規定された存在〉とあり、p.68では〈律令制社会の社会構成史的性格〉に対し〈「総体的奴隷制社会の最終段階」と規定することができるであろう〉とあり、p.154~155には〈アジア型の国家的封建制への道は止揚されたというべきであろう〉とあります。著者は、日本の歴史を奴隷の歴史にしたくてしたくてたまらないのでしょう。
 差別を大声で非難するものが、実は差別大好き人間であるという実例がはっきりと示されています。マルクス主義に基づいた学者にとっては、自分を美化するために、過去の社会は奴隷制を持たなければならないのです。そうでなけば都合が悪いのです。そのため、自身のねじ曲がった解釈によって、あらゆる制度を奴隷制に結びつけて論じてしまうのです。ある種の社会的時代的な条件下で、誇りや満足をもって生きた人間を、徹底的に貶めて、悦にひたっているのです。本書は、非常に醜い精神のありさまを見せつけています。
 石井寛治の『日本経済史[第2版](東京大学出版会)』を読みました。
 一言でいうと、一個人とある社会が、どれだけ醜態を曝せるのかという一つの極限を示している本です。
 p.6に、〈20世紀の社会主義の現実から、ただちにマルクスが『経済学批判』その他で描いた未来社会=社会主義社会の展望そのものが破綻したとみるのは早計〉とあります。この文章が、端的に著者の思考と本書の立ち位置を示しています。人類史上最悪の思想的立場の一つに立脚し、多大な犠牲を学問的に擁護しておきながら、何の反省もせずに自己弁護に終始するという、見事なまでの卑劣っぷりを大行進しています。
 本書で強調されているところを抜き出してみると、p.17に〈他人の剰余労働を搾取〉、p.30に〈家父長的奴隷制経営説〉、p.35に〈奴隷所有者としての名主〉、p.51に〈奴隷から農奴への転化〉、p.262に〈基本的には絶対主義官僚〉、などがあります。つまり、先人たちを徹底的に貶めて、自分はきれいで素晴らしい人間だと言い張っている最低の本なのです。
 p.42に、〈女性の多くは少女の頃から老いるまでそうした労働に携わりつづけて漸く家族に必要な衣料と年貢用の麻布を作るという有様であった〉とあります。普通は、そこに衣服という生活に関われる仕事の満足や、皆の役に立つという誇りなどがあったと想像できます。しかし、著者はそれらを一切感じることなく、彼女らに同情している振りをして、その実、徹底的に彼女たちを貶めているのです。同情を装った軽蔑という、非常に醜くて正視に耐えない酷薄さが現れています。
 本書の中には、一個人の徹底的な精神の醜悪さが滲み出ていますが、驚くべきことに、その人物は東京大学名誉教授であり、日本の最高学府でこの講義をしていたのです。一つの社会が、どれだけ醜態を曝せるかの実例を、残念ながら示していると言わざるをえません。
 青山拓央さんの『分析哲学講義』を読みました。分析哲学の入門書として、分かりやすく正確に書かれていると感じました。
 私が個人的に見事だと思ったのは、「規則」に関する説明です。p.119の〈人々の答えは事実一致するのですが、その事実を支えるもの、たとえば共通した規則把握の機構は存在しません。そして規則というものは、このような一致が成立しているという事実を後追いするかたちで初めて、その存在が示されるものなのです〉という説明は素晴らしいと思います。p.121の〈規則や意味の同一性が実践の一致をもたらすのではなく、無根拠な実践の一致が規則や意味の同一性をもたらすのです〉という箇所も素晴らしいです。
 本書の終わり近くで提示されている「分岐問題」は、非常に面白い問いだと思います。私も色々と考えてみたくなりました。
 最後の著者の意見として、〈私が期待しているのは、皆さんが自分自身の問題をもつことです。研究者を目指すのでもない限り、独創性は不可欠ではありません。他人を論破する義務も、他人に評価される義務もありません。それよりもずっと大切なのは、興味のある問題に出会える運と、何らかの直感を伸ばすか刈るかを即断せずに考え続ける力です〉とあります。ごくあっさりと、良い意見だなぁ、と思えました。
 しかしですね、ここでいう「問題に出会える運」とは、「分岐問題」において、どういう形で位置づけられるのでしょうか?と考えてしまうのです。

 中野剛志さんの『日本思想史新論』を読みました。日本思想の健全性を明確に論じており、面白くてためになります。
 先に、二点だけ違和感を覚えたところを述べておきます。
 一つ目は、構造改革批判として、p.18で〈世界第二位の経済大国の地位からも陥落した〉と述べている箇所です。構造改革が批判されるべき事柄であることには同意しますが、その根拠に経済大国からの陥落を言うのはあまり宜しくないと思います。国民数や国土面積や鉱物などを含めた国家条件を考えるに、日本国家が世界第二位以上の経済大国でい続けることは、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいと思われるからです。
 二つ目は、伊藤仁斎について、p.74で〈仁義礼智は厳密には定義できないし、すべきではないというのが仁斎の考えであった〉と述べている箇所です。私には、これは間違っていると思えるのです。人倫日用を重んじる仁斎は、多角的に言葉を捉えようとしているのだと思います。例えば仁については、『童子問』には〈仁は愛を主として、徳は人を愛するより大なるは莫し〉とあり、『語孟字義』には〈道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず。故に天下のために残を除く、これを仁と謂う〉とあり、『古学先生文集』には〈仁は愛のみ。けだし仁者は愛をもって心とす〉とあります。これらの意見を総合的に視ることで、仁という言葉を明確に指し示すことに成功している、と私には思えるのです。
 
 次に、論理構成として素晴らしいと思えた箇所を以下に挙げてみます。

<p.85>
 多くの現代人が「これこそ、これからの正義の話だ」と有難がって読んでいると知ったら、仁斎は苦笑したのではないだろうか。
<p.181>
 それを単なる封建反動としてしか解釈することのできない後世の学者たちは、プラグマティックなセンスにおいてはもちろん、国民国家という政治秩序に関する理論的な理解、さらにはナショナリズムがはらむ危険性に対する洞察においても、正志斎よりはるかに後れているのである。
<p.200>
 子安の解釈は、福沢諭吉と会沢正志斎の双方に対する根本的な誤解に基づくものに過ぎないのである。

 上記の文章は、ここだけ読んでも何のことか分からないと思うので、是非本書を読んで前後の文脈を確かめてください。見事な論理展開、およびこの結論の妙味を味わうことができると思います。

PS.
 本書の批判として、『文明論之概略』と『帝室論』『尊王論』では、福沢諭吉の皇統に対する考え方が変わっているのだという意見がありますが、間違っています。p.198の〈王室の連綿を維持し、金甌無欠の国体をして〉という文章は、1874年のものであり、『文明論之概略』は1875年の刊行だからです。

<追加>
 本書に対し、「仁斎・徂徠が「プラグマティズム」などという言葉・「今言」を全く知らなかった事実」を持ち出して批判している意見が出ているので、間違いを指摘しておきます。
 言語学用語に、意味しているものである「シニフィアン」と、意味されているものである「シニフィエ」の区別があります。記号と意味の区別と言ってもよいですし、中野さんは「言葉と言葉が指し示す対象」と述べています。
 荻生徂徠は『弁道』で、〈今文を以て古文を視、しかうしてその物に昧(くら)く、物と名と離れ、しかるのち義理孤行す〉と言い、〈礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり〉と述べています。「物」とは具体的な文物や制度などであり、「名」とは道などの抽象的な名称のことです。徂徠は、今の文章理解によって古文を読むため、物と名が合致せずに理論だけが先走っていると批判しているのです。シニフィアンが同じでも、シニフィエが違うと言っているのです。
 一方、中野さんは、実学とプラグマティズムは、シニフィアンが違っていても、シニフィエが同じだと言っているのです。
 両者とも、シニフィエの次元で意見を述べているのです。それを、シニフィアンが違うとトンンチンカンなことを言って批判している気になっている人がいます。本書を読んでも内容が理解できておらず、徂徠を読んでも内容が理解できていないと言わざるを得ません。

 『楢山節考』は、姥捨て山の話です。この話を通読することによって、ヒューマニズムと反ヒューマニズムの関係を考察することができます。
 姥捨てという掟のあるこの村では、楢山へ到着したときに雪が降れば運が良いとされ、年を取っても歯が全部残っていることは恥ずかしいことであり、楢山へ早く行くことが山の神さんにほめられることなのです。
 現代人の中には、これらのすべてに嫌悪感を抱く人もいるでしょう。しかし、それは、その人がヒューマニストであり、それゆえ、卑劣な人間であることを暗に示していることになるのです。姥捨ての構造を注意深く考察すれば、そう言わざるをえないと思うのです。なぜなら、ヒューマニズムの立場から姥捨てを非難することは、相手の置かれた立場に自身を重ねて考えるという、人としての最低限の礼儀も守っていないことを意味しているからです。ある種の境遇に立たされた人に対し、それを別の恵まれた立場から非難するということは、人間として最低の行為の一つです。
 姥捨てをしなければならない状況に立たされているか、姥捨てなどしなくてもよい状況に立たされているか、それは、当人の努力などほとんど関係のない端的な時代のせいであり、つまり、運なのです。その運に対しての考え方によって、人間の程度が知れるのです。
 さらに、姥捨てという掟によって、人間の精神の偉大さというものが、その掟があることによって浮かび上がるのです。また、その姥捨てに対する態度によって、その時代状況から離れた人物の精神のあり方も浮かび上がるのです。
 姥捨てとは、人間の精神が偉大であることがあり得るという、偉大な物語の一つだったのです。それゆえ、もし人間の精神に偉大さがありえると思うのなら、その人は、ほとんど必然的に、反ヒューマニストとなるのです。