本書は、佐藤一進さんが保守のアポリアを超えるために、共和主義の系譜をめぐる探究を試みたものです。そのため、保守主義の理念を解釈することに重点がおかれています。
議論は数多くの文献検討を基に、緻密に進んでいきます。特に、第2章の混合政体論について展開されている箇所は見事です。
第6章において、佐藤さんは次のような問いを出しています。
保守主義から喪失されて久しい理念とは何か。否、その成立の当初から明示的に言説化されてはこなかったがために、今日に至って、その存在の可能性すら検討されることのない保守主義の理念とは、いかなるものなのか。
この問いに対し、佐藤さんははっきりとした回答を示しています。ネタバレになりますので、ここでは言いません。気になる方は本書を読んで確かめてみてください。
そして、そこで示されている保守主義の理念が妥当なものなのか、ということが読者に問われることになるわけです。さらには、〈その成立の当初から明示的に言説化されてはこなかった〉という保守主義の理念を問うということ、その行為そのものに対して、新たなる問題提起が可能になるでしょう。
前者は保守主義者にとって、後者は保守主義者でない者にとって、とりわけ重要になってくるように思われます。その論点に着目することによって、佐藤さんによって提示されている〈近代的な保守主義を古代的な共和主義と係累づける思想的なアイデンティティ〉をどのように考えるかという、新たなテーマが浮かび上がってきます。
ちなみに、佐藤さんが述べているように、〈保守とは、あくまでも手段であって目的ではない。つまり、保守主義の理念とは保守ではない〉ことは言うまでもありません。
本書で佐藤さんが示した論理は、きわめて緻密で濃密ではありますが、そうであるが故に、〈近代において、保守主義者のみが果たしうるのではないであろうか〉という言葉の妥当性が問われることになります。
私なりに、続く議論のテーマを示しておくと、ここで語られている保守主義は、少なくとも数多の種類の共同体主義と対決しなければならなくなるでしょう。少なくとも、共同体主義ではなく保守主義を選び、その保守主義のみということを主張するならば、その対決は避けては通れないはずです。
話は遡って、2010年の終わりごろに発売された『京の発言』14号という雑誌で、佐藤さんは『保守主義の臨界域』という論文を書いておられます。
「わたしは自由に酔い痴れる」と述べるモンテーニュを崇拝することに比して、「わたしは人間らしい、道徳的な、規律ある自由を愛する」と言うバークに重きをおかないオークショットには、こうした批判もアイロニーに満ちた微笑をもって受け流されたに違いない。オークショットを仰ぎ見つつ、その臨界域を越えて、どこへ向かうのか。それが、これからの保守主義の命運を決することになるであろう。
本書は、この課題の延長線上にあったように思えました。