2014年5月アーカイブ

 本書は、佐藤一進さんが保守のアポリアを超えるために、共和主義の系譜をめぐる探究を試みたものです。そのため、保守主義の理念を解釈することに重点がおかれています。
 議論は数多くの文献検討を基に、緻密に進んでいきます。特に、第2章の混合政体論について展開されている箇所は見事です。
 第6章において、佐藤さんは次のような問いを出しています。


 保守主義から喪失されて久しい理念とは何か。否、その成立の当初から明示的に言説化されてはこなかったがために、今日に至って、その存在の可能性すら検討されることのない保守主義の理念とは、いかなるものなのか。


 この問いに対し、佐藤さんははっきりとした回答を示しています。ネタバレになりますので、ここでは言いません。気になる方は本書を読んで確かめてみてください。
 そして、そこで示されている保守主義の理念が妥当なものなのか、ということが読者に問われることになるわけです。さらには、〈その成立の当初から明示的に言説化されてはこなかった〉という保守主義の理念を問うということ、その行為そのものに対して、新たなる問題提起が可能になるでしょう。
 前者は保守主義者にとって、後者は保守主義者でない者にとって、とりわけ重要になってくるように思われます。その論点に着目することによって、佐藤さんによって提示されている〈近代的な保守主義を古代的な共和主義と係累づける思想的なアイデンティティ〉をどのように考えるかという、新たなテーマが浮かび上がってきます。
 ちなみに、佐藤さんが述べているように、〈保守とは、あくまでも手段であって目的ではない。つまり、保守主義の理念とは保守ではない〉ことは言うまでもありません。
 本書で佐藤さんが示した論理は、きわめて緻密で濃密ではありますが、そうであるが故に、〈近代において、保守主義者のみが果たしうるのではないであろうか〉という言葉の妥当性が問われることになります。
 私なりに、続く議論のテーマを示しておくと、ここで語られている保守主義は、少なくとも数多の種類の共同体主義と対決しなければならなくなるでしょう。少なくとも、共同体主義ではなく保守主義を選び、その保守主義のみということを主張するならば、その対決は避けては通れないはずです。


 話は遡って、2010年の終わりごろに発売された『京の発言』14号という雑誌で、佐藤さんは『保守主義の臨界域』という論文を書いておられます。


 「わたしは自由に酔い痴れる」と述べるモンテーニュを崇拝することに比して、「わたしは人間らしい、道徳的な、規律ある自由を愛する」と言うバークに重きをおかないオークショットには、こうした批判もアイロニーに満ちた微笑をもって受け流されたに違いない。オークショットを仰ぎ見つつ、その臨界域を越えて、どこへ向かうのか。それが、これからの保守主義の命運を決することになるであろう。


 本書は、この課題の延長線上にあったように思えました。


どうでもいい裏話

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 『ナショナリズム入門(講談社現代新書)』『日本人に生まれて、まあよかった(新潮新書)』の感想を書きました。

 『ナショナリズム入門』の方は、ASREADで【ナショナリズム論(1) 国境や国籍にこだわる時代は終わったのか?】や【ナショナリズム論(2) 対E・ルナン】を書いていたので、やっぱり気になったのです。ナショナリズム論は(7)まですでに書き終わっているのですが、この本のために(8)を書かなければならなくなるかもしれないので、とりあえず読んでみたのです。結論から言うと、この本についてナショナリズム論は書かないです。方向性が違っていましたし、ナショナリズム論で批判しようとした論点とはまた違っていたのでね。

 『日本人に生まれて、まあよかった』の方は、面白かったのですが、かなり批判したいところもありましたね。感想では、空気を読まずに言っちゃっていますが、実はさらに細かいところでいくつか批判できたりできるのです。ただ、批判箇所が多くなると、書くのがめんどくさくなるのですよね(笑)

 私は、西部邁さんや中野剛志さんの著作について論じたりするのですが、それは、ほとんどが同意できて、相違点がわずかだからなんですよね。相違点がわずかだと、そこを集中して論じることで、思想的に深みが生まれると考えているわけです。

 逆に、批判箇所が多すぎると、そもそも相手したくなくなってしまうのですよね。一冊の本で、批判箇所が5つを超えると、全部を批判しようとは思わなくなるのですよね。



 本書は、ナショナリズムについて、ネイションそのものの分析に集中して論じています。丁寧に論じられていて、ナショナリズムやネイションについて知るための良書だと思います。大筋は賛成できるのですが、いくつか疑問に思った点について述べておきます。


<p.14~15>
 ネイションというのは透明な空っぽの袋のようなものです。ここにさまざまなものが詰め込まれて、初めてネイションには独自の色が出てきます。

<p.261>
 ネイションの強みは、それが透明で空っぽの袋のようなものを提供してくれるところにあります。ネイションを手渡されれば、そこに人間は、いろいろなものを詰め込むことができるのです。


→ ここには、少し違和感を覚えました。この書き方ですと、最初に袋があって、その袋の中にポイポイといろいろなものを詰め込むイメージが浮かんでしまいます。
 むしろ、いろいろな要素が混じり合って、(袋というか皮膚というか)領域的政治的な境界線が引かれていくことで、ネイションが形成され続けているといったイメージが合っているような気がします。


<p.16~17>
 ネイションに共通するのは、とりあえず以下の三点です。ネイションとして形成される形は、関係者の自明性への欲求を吸収しつつ、実際には歴史の中で変化していくものであること。その形成される単位には、大きく分けて人間集団単位と地域単位があること。そしてその形成に際しては、形成される単位をめぐるせめぎ合い、ネイション以外の何かとのせめぎ合いがよくあることです。


→ 人間集団単位と地域単位とに分けるというのが、よく分かりませんでした。人間集団という要素と地域という要素が合わさっているとして、どちらかの比重が高い場合があるなどのような言い方をすることで、分けてしまわない方がよかったように思うわけです。p.36~37のネイションの定義からして、そうしておいた方が議論の道筋が混乱しなかったように思えるのです。
 例えば、p.11で〈イスラーム・ナショナリズムとは呼べない〉ということが述べられていますが、それはネイションが人間集団と地域が合わさったものであるからだと思うわけです。人間集団単位によるネイションという考え方をすると、イスラーム・ナショナリズムもありなように思えてしまうからです。
 p.194~195では、〈どちらかが目立つ場合にも、もう一方の特徴が入り込み、絡み合っているのが普通なのです〉と述べられていますので、はじめから分けずに論じてもらった方が(少なくとも私は)混乱しなかったです。


<p.277~278>
 われわれの暮らす現在は、人間集団と地域と政治的仕組みがネイション化している現在です。そしてネイションの数だけネイションへのこだわりがあり、それらが複雑に関わり合っています。このこだわりは世界を各地で揺り動かし、人間を右往左往させています。しかしナショナリズムは、あくまでも人間が作るものであり、人間が生み出してきたものです。それゆえ、人間が善く育てねばならないものではないかと、わたしは思います。


→ 人間が生み出したものだから、人間が善く育てねばならないという理由がよく分かりませんでした。人間が生み出したもので、さっさと排除した方がよいものもたくさんあるからです。ネイションを肯定するための理由は、他の根拠を必要とするように思われるのです。


 ちなみに、p.67の「ドイツの形の変化」の図は一見の価値ありです。特に日本人にとっては、国家の領域がこれほど変化するというのは衝撃的に感じられると思います。


 著者が歯に衣着せずに言いたいことをドンドンと言っている感じで、面白かったです。

 個人的に面白いと思ったところを少し紹介してみます。


<p.40>
 今日の日本では、無抵抗主義の非戦論者が信用を博しているとは思われません。自衛隊の存在そのものを容認しない、絶対的平和主義を奉ずる人々や団体もあるでしょうが、失礼ながらカルト集団の要素が強いのではないでしょうか。


<p.69~70>
 私は原爆搭載機エノーラ・ゲイのスミソニアン博物館での展示の是非をめぐって騒動が持ち上がった時、英文の『タイム』誌に投稿して爆撃が人道的であるか非人道的であるかは市民と軍人の死傷者の比率でわかる、そういう見方をすれば日本海軍の真珠湾奇襲はむしろ武士道にかなったものであると説きました。


<p.100>
 チベットの仏教文化を抹殺させるような中国の同化政策を支持するわけにはいきません。指導者ダライ・ラマを日本で歓迎しましょう。


<p.134~135>
 合衆国で「○○系アメリカ人」(いわゆるhyphenated Americans)の中で犯罪発生率の最も低いのは日系アメリカ人です。私はそのことを指摘して「罪の文化より恥の文化の方が上だね」とアメリカの日本学者によく冗談を言いました。ベネディクトは初めに結論ありきの二分法で、それに都合の良いデータを集めた、彼女はアメリカの御用学者としてはきわめて有能であった、しかし字義通り「恥知らず」の女であった、というのが私の見立てです。


 こういった意見に共感を覚える人は、本書は面白いと思います。

 しかし、こういった意見に反感を覚える人は、読まない方がよいかもしれません。

 また、著者はp.90で〈空気は読むな〉という有難い教えを説いておられます。

 そのため、教えにならって空気を読まないコメントもしてみようと思います。


<p.3>
 民主主義の信奉者である私は、人間誰しも国家の基本問題に思いをいたすべきだ、書斎の人間だからといって政治や社会に無関心であってはならない、と考えます。


→ 民主主義に対する懐疑の念くらいは持った方がよいと思います。


<p.77>
 私は日米同盟支持で、日本が米国の傘で守られていることを良しとしている者です。


→ 米国の傘は穴が開いていますよ。傘からもれた雨水にあたって風邪をひいて肺炎になって死ぬのは、私は嫌ですね。


<p.213>
 新聞社や放送局はもとより、官庁に入って反日的活動をすることに意味を見出す者もこれからは必ずや出るにちがいない。いや、すでに存在している、というのが実状でしょう。しかしその異質分子にも日本の良さを感じさせ、日本社会への参加意識をもたせる術を日本の管理者は学ばねばなりません。


→ 無理だと思います(苦笑)。スパイを改心させようとするなんて、甘い考えは捨てましょう。


 本書は、今までの著作をまとめた内容になっていますね。

 経済学という分野を見渡して、共感してしまったところを少々。


<p.159>
 「新古典派」をどのように取り入れるかでは立場が違うとはいえ、英米で同じ「ケインジアン」の名で呼ばれている経済学者たちが批判と反批判の応酬を繰り返すのは、遠くからみれば、「同士討ち」と言ってもよいような光景ではなかったか。


 → 確かに(苦笑)


<p.181>
 もし「学派」に効用があるとすれば、それは「師匠」の理論や思想が弟子たちを通じて比較的早くかつ広範囲に広まっていくことだが、同時に、それはマイナス面を伴うこともある。それは、「師匠」の理論や思想に対する思い入れが強すぎて、その他の「新しい」要素を取り入れるのを妨げる場合である。マルクスやケインズの「学派」には、多少とも、このような傾向がみられたことは否めない。
 では、同時期に複数の「学派」が存在し、お互いに反目している場合は、どうなのだろうか。この場合、それぞれの「学派」に属する人々がお互いに「対話」を通じて自分たちに足りないものを発見する方向に行けば生産的なものが生み出される可能性があるが、単にお互いが「反目」しあっているだけなら貴重な時間の無駄になる恐れがある。


 → 学派や特定の政策に固執するあまり、議論がおかしな方向へ行ってしまっている人たちを割と見かけます。経済学って、取りうる選択肢が限られていたりするのですが、その少ない選択肢の中でかなり不毛な言い合いがあったりするように見えてしまうのですよね。


 本の感想というか、今後読みたいと思っている本について。


 最近は本屋に行っても、読みたい本がなかなか見つからない。

 今後に出るであろう本で、出たら必ず買うであろう本を少々・・・。


【柴山桂太さんの単著】

 柴山さんの単著は、『静かなる大恐慌』がありますね。

 共著はけっこうありますが、単著はまだこれだけだと思います。

 今後に単著が出るのを楽しみにしています。

 何度も書いていますが、柴山さんの反論を許さない論理技術は、日本トップレベルだと思います。というか、この技術に関して柴山さんを超えるレベルの人を私は知りません。知っている方がいるなら、是非とも教えてください。

 あと、『まともな日本再生会議』でも少しだけ話題にあがっていましたが、柴山さんの通貨論について期待大なのです。読みたいなぁ。


【佐伯啓思さんの単著】

 

 佐伯さんの単著は全部読んでます。次回作は、おそらく『正義の偽装』の続編になるのではないでしょうか。次回作では、いよいよ西田幾多郎の思想に踏み込んでいくはずです。楽しみです。


【長谷川三千子さんの単著】

 『神やぶれたまはず』も素晴らしかったですね。

 私が特に期待しているのは、『日本語の哲学へ』の続編です。そこでは、「主語の思想」や「てにをはの思想」が展開されるはずなのです。要注目なのです。


【永井均さんの単著】

 次回作が何になるかは不明ですが、出たら買って読みます。



 以上のように、この四名の単著は無条件で買って読むつもりです。

 あとは、本屋に行って気になったのがあったら読んだり読まなかったりします。