2018年1月アーカイブ


 本書の西部の発言から、良いセリフと、とても良いセリフを紹介します。まずは、良いセリフから。


 

 ぼくは軍国主義は大嫌いなんだ。戦前、兵隊たちが威張りすぎていた。兵隊の虎の威を借る狐もごろごろ出てきた。そういう意味ではいやな時代だったと思う。軍国主義そのものもいやだけれども、それ以上にいやなのは、そういうくだらない軍国主義が権力として一時期はびこると、結果として、国民のほとんどすべてを平和主義者に追いやってしまうんです。そういう言い方もできる。



 確かにそうですね。軍国主義は嫌なものですが、平和主義にもいかがわしさがあります。ここの嗅覚って、あんがい大事なところだと思うんですよね。いざってときに、化けの皮が剥がされないためにも。
 さて、次はとても良いセリフを。


 

 今、思い出したんだけど、イギリスの田舎に暮らしたときに、まだ娘が小学校三年生ぐらいで、近所の女の子の友達たちがしょっちゅう遊びにきていた。小さな子が遊びにきていたから、まだお人形ちゃんを持っているわけです。それが首のない人形だったり、手のない人形だったりする。ポーセリンでできたやつが多いんだけどね。それで彼女たちは、これはおばあちゃんから受継いだものだというわけです。

 もちろん、美意識の違いがあるから、その点は一応おくとしても、日本でおばあちゃん譲りの首のない人形、手のない人形といったら、まず母親が、こんなものは汚らしいといってゴミ箱に投げるし、そんなものを小さな女の子にやったら、女の子が地団駄踏んで怒るというようなことが常態になっている。

 おばあちゃんからもらった大事な人形だといって、女の子がいつもそれを抱えているのは、掛け値なしによき風習であるとぼくは思う。でも、そういう感覚を日本人は本当に大幅に失っている。





 これは、本当に良いセリフだと思います。そうは思いませんか?



 本書の西部のセリフで、面白いところがありました。


 

僕の思う大衆の原形というのは、じつは当時の東大の学生たちなんですね(笑)。だから、いわゆるエリート対大衆とか知識人対大衆とかいうことじゃないんです。ああいう東大生たちが将来エリート――高級官僚、高級ビジネスマン、学者など――になっていく。僕の思う大衆というのは、結局、東大を一応の頂点として成り立っている今のビジネスマンとか知識人とかのことなんです。




 大衆批判を繰り広げていく西部ですが、そこには東大の学生の姿があったというのです。
 私個人としては、東大生が大衆だとは必ずしも思いませんが、興味深い視点だとは思えます。


 西部邁さんと富岡多恵子さんの対談本です。西部さんの発言から、参照すべきところを抜き出してみましょう。


 つまり、言語が具体性を伴ったときのことを、今それを、こと新たに発見せねばならぬ。なぜならば旅人たちは、かつての自分の歩んできた足跡を忘れちゃっているから。そんなふうに思う。言葉の記号化という退屈な作業を続けるくらいなら、言葉の歴史の中に驚きを見出したいということです。言葉を記号と化す仕事なんか実につまらぬ、ちっぽけなことです。そして自分のちっぽけさを自覚したら、意味に満ち満ちていた言葉の歴史がかえって巨大なものに見えてくるんじゃないですか。だから、記号化の宿命はわかるんだけれども、そこでひとつ、昔のことを思い起こしてみるのも悪くはないぞというふうにいいたい。しかも、それも、かなり大声を上げていわないとね。



言葉を記号化する論理学は必要ですが、それだけだと確かに無味乾燥な気がします。やはり、抽象的な言葉の記号化は必要なのですが、それと同時に歴史における具体的な言葉のあり方を参照しなければならないのでしょう。


僕は西洋になんか......思いきっていってしまおう......なんの関心もないんですよ(笑い)。


 この発言、けっこう重要ですよね。ただ、そうは言っても西洋に惹き付けられているところがあるなぁと思わないでもないですが。

 西部邁さんが、いろいろな方々と対談した内容が記載されている本です。

 個々の対談より、西部さんの「まえがき」と「あとがき」の方に価値があると思われる本です。というわけで、「まえがき」より引用です。




先達と付き合うには彼らの書物を読まねばならない。私なりにその営みを続けてきたつもりである。しかし、過去といい経験といい、活字では表わし尽せないなにものかが含まれていればこそ、一入の重みをもつのである。それを感得するのにいろいろの手立てがあるのだろうが、先達の身体を目の当たりにしてみるのも有効である。つまり、表情、声色、身振りなどに接するということである。そうすることに損失がないというのではない。想像の次元でせっかく色合ゆたかに膨らんでいた思いが、直接の対面のために、いささか単色な現実の次元にひきずりおろされるということがあるのかもしれない。しかし、その損失を覚悟で、社交の場に臨むのが生のやむをえざる任務なのではないか。そういう任務にともかくも取組まなければならない時期が人それぞれにあるものだと私は思う。



 本を読むだけでは分からないことというのは、確かにあるものだと思われます。本に感銘を受けても、会ってみるとがっかりすることもあれば、本はいまいちでも、会ってみると人格に感心したりとか、けっこうあるものなんですよね。

 社会が嫌いとか苦手という人がいるかと思いますが、やっぱり意図的に社会に臨むということは、少しは必要なのだと思われます。

 第6回(1984年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞を受賞した本だそうです。価値相対主義との闘いをかかげ、色々なテーマについて著者のレトリックが冴えています。例えば、「特性のない男」から引用してみましょう。



あなたの専門はなんですか、とよく聞かれる。ここ五年ばかりは専門知の退潮いちじるしいものがあるので、さすが、他人の専門をせんさくするものは少なくなったが、それでも、専門不明の人間は周囲にいくばくかの不安を与えずにはすまないようである。私は、厭味にきこえるだろうことを覚悟のうえで、専門をなくすのが私の専門です、と答えることにしている。



 専門主義の弊害を打つための面白いアプローチです。
 でも、やっぱり専門はあらざるを得ないのだとも思います。専門を無くそうとしたとき、そのための専門が出来上がらざるを得ないのだから。

 専門にならざるを得ないのだが、専門にこだわり過ぎてしまう弊害も自覚しておくべきなのでしょうね。

 オルテガの『大衆の反逆』のオマージュ的な作品というか、著者の対・大衆戦への狼煙とも言える著作です。本書では、大衆が次のように定義づけられています。


ここで大衆の概念を定義し直すならば、「大衆とは自らの語り演じている大衆産業主義および大衆民主主義の神話性を、商品についてであれ、計画についてであれ、習俗についてであれ、はたまた知識についてであれ、感覚的および論理的に自覚することのできない人、または自覚への努力を放棄する人」ということになろう。



 本書のおいて著者は、産業主義と民主主義という二様の価値について懐疑を進めていくことになります。

 ちなみに、「文春学藝ライブラリー版あとがき」では、次のような記述があります。


ただ、今にして思うのだが、私はネオロジズム(新語愛好癖)にたいする自分の嫌悪を押し殺して、マスマンに「大量人」という新語を当てがっておくべきだったかもしれない。というのも、オルテガの驥尾に付して私がモダン・エイジ(近代)に反逆したいと考えたのは、「最の時」にたいする反発という直情に発してのことではなく、モダンであることの本質としての、またその語の語源的な意味としての、「単純なモデル(模型)が大量のモード(流行)となる」という近代二百年余の休みなき過程にたいして、価値論からも認識論からも、さらに人生観にあっても時代観にあっても甚だしい違和を覚えたからなのであった。



 ここで、マスに対する訳語の検討は、かなり重要なところです。私がどこかで、いわゆる大衆論について言及するときには、改めて検討をしておく必要があるでしょう。

『ケインズ』西部邁

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 ケインズについての評伝です。興味深い記述がいろいろ見られますが、せっかくなのでケインズに関係するところから引用してみましょう。


散文が説得的なものになるか、それとも退屈なものにおわるか、それはむろん表現者の能力による。ただ、散文的健全性とはより説得的たらんと努めはするものの、なにほどかの退屈をあえて厭わぬものといえよう。


 イギリス的な散文的健全性は、けっこう重要な概念だと思われます。ただ、私は苦手ですけどね(笑)。個人的には、ドイツ的な体系性の方が性に合っている気がします。散文的健全性だと、重要な記述を見つけるのがけっこう大変なんですよ。途中であっさりと重要な言葉が出てきたりしますから。

 題名からは分かりにくいですが、ケインズとウェブレンの評伝です。

いる。エピローグでは、今後に著者が取り組むことになる大衆についての定義が出ています。

けっきょく、私の下してみたい大衆の定義は、「自らの参与している大衆社会の神話性を感得し解釈する努力をなおざりにする人」ということになる。


 著者の大衆論も、微妙な変遷を経ていくことになります。そこには、うなずける論点もあれば、首を傾げざるを得ない論点もあります。ただ、著者が自身のリスクを顧みずに取り組んだということは言えますので、そこには敬意が生じるのです。

 問題は、むしろ彼の弟子筋でしょう。師匠が切り開いた険しい道を、舗装されてから偉そうに歩いている者たちが散見されます。そこには注意が必要でしょう。

 本書は、著者のアメリカとイギリスの体験記です。

 分量はアメリカ編が多いですが、質的に重要なのはイギリス編の方です。少し、気になった文章を引用してみます。

個人主義が矛盾なく伝統主義と連絡するひとつの道があると僕は考えたいのです。要約していうと、それは「個人主義を個人主義的に脱け出る」という道です。もう少し言えば、個人の意識を認識的に掘下げていって社会に到達するというやり方です。ここで「個人主義的に」といったのは、認識が否も応もなく個人の頭脳から生み出されるということを認めるからです。


 今後の保守主義へとつながる記述が散見されます。また、著者の特異なレトリックでもあります。

 ちなみに、認識を個人に置くことから、著者は社会学的な思考をしていることが分かります。ここで、認識を自己と置くことも、自我と置くこともできますが、それによって、また別種の思考形態(哲学)を語ることができます。しかし、それはまた別の話ですね。