先日の、
に対し、小浜さんよりご回答いただきました。お忙しい中、ありがたいことです。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/be18d67c1e4cf21505decb0588c9784a
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さっそく拙著をお読みいただき、また、いろいろとご指摘いただき、ありがとうございます。
ご質問にお答えします。
(1)これは、特にだれかれを想定しているということはありませんが、朝日新聞の「アエラ」などに、福沢は軍国主義者だったというような決めつけ記事を見かけたことがあります。また、進歩主義リベラルというのは、日本では戦後になってから生じた思想現象ですから、そのポジションから福沢を切り取ることは、後付けのバイアスがかかることをまぬかれないと思います。丸山にもややその傾向が見受けられます。ここの拙文はそうした後付け的な解釈からなるべく自由な立場で、時代のなかの福沢をもう一度きちんと見直そうとするための、一種のレトリックであるとご理解ください。
(2)福沢のなかには、長い間の封建制身分社会が、多くの日本人の中に卑屈な「感情」を植え付けたために、そこから脱却するのでなければ、欧米並みの文明社会は望めないという思いがありましたから、そういう背景を想定して、「いわれなき尊卑感情」と書きました。あれは「福翁自伝」でしたか、馬に乗ってきた百姓(?)が、武士である福沢に出会ったときに慌てて馬を降りて、へいこらした時に、そんなことをしないで堂々と馬に乗れと言ったという有名なエピソードがありますね。これが事実とすれば、福沢が「自主自立」の精神を一般庶民のなかにも育てたいと思っていたことは確実で、「学問のすゝめ」にもその思いが反映していると思います。福沢がここで意識しているのは「感情」であって、職業の貴賤という社会構造的な事実ではないと考えます。
(3)これは、主としてイギリスやアメリカをイメージしています。たしかに、必ずしも「伝統的な」と決めつけることはできないかもしれませんが、孤立に追い込まれた結果、大東亜戦争で大失敗を喫したこと、戦後アメリカに押しまくられたままになっていることなどに見られる外交下手を考えると、こうした近代日本政治史が、幕藩体制の中核が揺らいだ時に、藩どうしが結束できずに空気で動いてしまう欠点が露出したことと結びつくように思われます。ちなみに「......感じるのは、筆者だけでしょうか」という問いかけの形になっている文体の含みを読み取っていただければ幸いです。
(4)はい。その理解で結構です。松方財政政策の影響が深刻なデフレとして顕著になるのは明治18年くらいですが、その当時の福沢の「時事新報」における経済への言及については、めぼしいものとして「貧富論第一」がありますね。しかしこれはあまり論及に値するとは考えませんでした。そのためか、うっかり頭から飛んでしまったのだと思いますが、いずれにしても、「明治24年まで経済論らしきものは執筆していない」という言い方は不正確のそしりをまぬかれませんね。再版の機会でもあれば、訂正しましょう。ちなみに「貧富論第二」は明治24年です。
なお、藤原昭夫氏の著作については、不勉強にて、今回念頭にありませんでした。今後の参考とさせていただきます。
ただ、一般的には福沢の経済論が、その名声に比してさほど話題になっていないことはたしかに思われます。
(5)お挙げになっている儒者や国学者のなかでは、荻生徂徠と石田梅岩(彼はやっぱり儒者に入るでしょう)についてはきちんと読んでおりますし、彼らを取り上げて論じたこともあります(『表現者』73,74号)。徂徠はたしかに「単なる節倹奨励主義」ではありませんね。彼の現実主義的な幕政改革論は、いま読んでもとても参考になります。梅岩は、商人思想家として、手堅い商売と商人倫理の確立のために、かなり節倹を奨励していると私は理解しております。放埓を戒めたり、ある人物(あれはかなりの堅物ですね)の生き方を設定して、学ぶべきモデルとして提出している点などから見て。
なお、ここで私が「儒教道徳に裏付けられた『節倹奨励主義』」としてイメージしているのは、これら独特の思想的な境地を切り開いた人々よりも、むしろ福沢の同時代に支配的だったと思われる「儒教道徳」という一般的なエートスについてです。まだ資本主義の原理が明らかでない時期ですから、こうした道徳(一種の精神論)が力を持っていたのは、ある意味で当然のことと思われます。また、江戸時代の三大改革は、みな倹約を奨励していますが、その面ではことごとく失敗しています。にもかかわらず、幕末においては、まだそういうことを反省するような気風の転換に至っていなかったというのが、実情ではないでしょうか。これもまた当然のことと思います。
(6)残念ながら、藤原氏の指摘に対していまここで議論する資格がありませんが、福沢が「行盃人」のたとえを持ちだしていることは確かですね。このたとえの適不適についても議論の余地がありそうですが、それはともかく、拙著の引用箇所では、福沢ははっきりと貨幣を「預かり手形」と規定し、それが譲渡性を持つことによって通貨となると説いています。「預かり手形」とは、三橋氏などの説く「借用証書」という規定と変わりないのではありませんか。支払者が小切手を振り出すのと同じとも言えます。もちろんこれが国民の信用によって一国の通貨となった時(つまり日銀が支払者として「小切手」を市中銀行に対して発行するようになったとき)、流通手段としての機能を持つことは当然ですが、私はそれはあくまで貨幣の機能であって、本質ではないと考えます。現にいまのデフレ期のように、いくら日銀当座預金が膨れ上がっても、市中に流れなければ、流通手段としての機能はおぼつかなくなりますが、しかし、日銀が銀行に対して振り出した「約束手形=借用証書」としての本質は維持されています。
以上、お答えになりましたでしょうか。
まだこれ以外にも疑問点、批判点など多々あるやもしれませんが、申し訳ありません。現在、他の仕事にかまけていて、これ以上、お答えするだけの心の余裕がありません。なにとぞご容赦ください。
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取り急ぎ、(5)の評価は、
『日本式 経済論』の以下の人物などを参照してみてください。その上で、判断していただければと。
あとの項目については、別途、少しだけ論じてみることにします。
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