2013年9月アーカイブ

 『哲学ごっこ』に、『永井均の『哲学の賑やかな呟き』で哲学する』を追加しました。

 公正に関する部分なんかは↓に続いて、

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-526.html

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-527.html

 

 「続々・戯れ言」なんて続編を書くときの良いテーマになりそうです。

 書く気はないけど。

 まあ、哲学系の話は、楽しめる人は楽しんでください。

 

  本書は『経済学はこう考える』の続編に位置づけられています。前作では多数の経済学者がバランス良く解説されていましたが、本書ではシュンペーター・ハイエク・ケインズの3名に絞って論じられています。
 3名とも基本からしっかりと論じられているので、入門書としては十分だと思います。ある程度の経済学の知識がある場合は、少し物足りなく感じるかもしれませんが。
 個人的には、資本主義の論じ方について興味を覚えました。
 具体的には、シュンペーターの『今日における社会主義の可能性』とか、ケインズの『自由放任の終焉』とかですね。シュンペーターは、〈かくして、資本主義秩序が生き延びるか否かに関する予見は、ある程度用語の問題に他ならない(p.78)〉と述べています。ケインズは、〈私としては、資本主義は、賢明に管理されるかぎり、おそらく、今までに現われた、いかなる他の体制よりもいっそう有効に経済目的を達成するのに役だちうるものであるが、それ自体として見るかぎり、資本主義は多くの点できわめて好ましくないもののように思われる。われわれの問題は、満足のゆく生活様式というものに関するわれわれの考えに逆らうことなしに、できるかぎり効率の高い社会組織を苦心して創り出すこと、である(p.94)〉と述べています。
 この2名の言葉から、資本主義について語るべき論点が見出せるかもしれません。

 

 経済学の本というのは、初心者にはけっこう読みにくいと思われるのですが、本書はかなり読みやすかったです。
 例えばケインズ理論についても、不況対策には「減税、低金利、公共投資」、インフレーションの危機には「増税、金利の引き上げ、公共投資の削減」と分かりやすく説明されています。〈総需要の構成要因(消費と投資)のなかでも、ケインズ理論にとって決定的に重要なのは投資である(p.58)〉とかも分かりやすいですね。
 具体的には、〈予想利潤率(ケインズは、「資本の限界効率」という難しい言葉を使っていますが)と、資金の借入コストに当たる利子率を比較考量しますが、企業家が合理的な行動をとる限り、予想利潤率と利子率が等しくなるところまで投資をおこなおうとするはずです(p.58)〉が、世の中は複雑ですからこれらのことが厳密に分かるわけはないのです。そのため、〈企業家が「不確実性」の世界のなかで意思決定をしなければならないということ(p.59)〉になるわけです。
 ケインズの弟子であるジョーン・ロビンソンについては、〈経済学を学ぶ目的は、経済問題に対する一連の受け売りの解答を得ることではなく、いかにして経済学者にだまされるのを回避するかを知ることである(p.81)〉という言葉が紹介されています。細かいところですが、それって目的じゃなくて手段じゃね?って思いますね。だまされないことは重要ですが、それは目的ではないですよね。
 ただし、ロビンソンによって提起された第二の危機についてはよくよく考えてみる必要があると思います。第一の危機は「雇用の水準」についてであり、それはケインズの有効需要の原理によって回避されたと見なされています。第二の危機は「雇用の内容」についてです。軍事ケインズ主義などの問題を考える上でも、参考になると思います。
 また、カレツキが〈「産業の指導者」が「完全雇用の維持によって生じる社会的・政治的変化に対する嫌悪」を理由に完全雇用政策に反対するようになることを論じていること(p.96~97)〉も非常に重要ですね。現代日本において、経団連の提言がめちゃくちゃなことを鑑みても、カレツキの言葉から参考にすべき論点を持ち出すことができそうです。
 著者の〈かつての計画経済の失敗はもはや明らかなのですが、何事もバランス感覚は必要で、市場経済の利点を生かすべき分野と、政府がきちんと規制しなければならない分野とは慎重に区別しなければなりません(p.104)〉という意見についても、その通りだと思います。

 『経済学の教養』とは、これまたすごい題名ですねぇ。
 本書で示されている意見について、気になったところにコメントしてみます。

<p.22>
 わが国では、ときに、経済学が輸入学問から始まったことに引け目を感じて、一日も早く自国の風土に根ざした「日本経済学」を構想すべきであるというような主張に魅力を感じる向きがありますが、「マルクスの基本定理」も「有効需要の原理」も、人類の知的遺産であり、ことさら自国の「伝統」なるものにこだわる必要はないのではないでしょうか。

→この見解については、「ことさら」という言葉の意味にもよりますが、その通りだと思います。もちろん、「制度」や「歴史」や「慣習」において、自国の「伝統」が重要になるような場合も多々あると思います。その側面もありますが、人類の知的遺産として利用可能な考え方もあるわけですね。
 ものすごく当たり前のことを言えば、人類レベルで共有できる知識があり、その上で各国の歴史性に合った経済のあり方がありえるということなのでしょう。

 

<p.104>
 ポスト・ケインズ派の文献は、私もたくさん読みましたが、いまから回顧すれば、彼らはケインズの側近であったために、あまりにケインズの言説のあれこれに引きずられすぎたのではないかという印象を受けます。自分たちだけがケインズを正確に理解しているという誇りは立派なものですが、それ以外のものをすべて排除するような「非寛容性」は、彼らの経済学を次第に袋小路に追い込んでいったのではないでしょうか。

<p.105>
 「本流」と「周辺」、あるいは「正統派」と「異端派」を問わず、学問はできるだけ広く学ぶべきことも同時に強調しておきたいと思います。

→ポスト・ケインズ派についてのこの考え方についても、その通りだと思います。エコノミクスとしての経済学の歴史において、ケインジアンを名乗ることの意義について、いろいろな経済学者がかなり無駄な議論を展開しているように思えるのです。
 私からすると、ケインズの言っていることで、参考にすべきは参考にし、間違っていると思うところは受け入れなければ良いだけだとしか思えないのですよね。
 例えば、「価格の硬直性」とか「有効需要の原理」とか「不確実性」とか「流動性選好」とか、それぞれに論じるべきことを論じれば良いとしか思えないのですよね。そこで、ケインズ的か否かとか、ケインズ革命の本質とは何かとか、どうでも良いような気がするのですよね。

 

<p.171>
 まだ故田中真晴氏が元気でよく研究会で顔を合わせていた頃、「年寄りのひがみと思ってもらってもよいが、あなたはものを知りすぎているのではないか。昔は、ミル研究ならミルばかり明けても暮れても読んでいた研究者がいたものだ。そういう愚直さもわからないといけない」という趣旨のことを言われたことがありました。

<p.171~172>
 私は、研究者は、自分の本領があったとしても、できるだけ多様な経済思想を学び、自分がまだまだ「無知」であることを実感すべきだと思っています。そうすることによってしか、異なる思想に対する「寛容」の精神は身につかないという堅い信念をもっています。

→これについても、著者の根井氏に賛成です。
 というか、ミルばっかり読んでいる人って、ゾッとしますね。ある意見の妥当性とは、有名人の意見だからとかではなく、反対意見との格闘を通じて研磨すべきものだと思うからです。

 本書では、新自由主義の問題点が分かりやすく語られています。
 次のような著者の見解は非常に重要だと思いますし、共感できます。

 

<p.ii>
 私は、かつてのポール・A・サムエルソンの「新古典派総合」(名称にはこだわらない)のように、市場メカニズムと政府の経済管理のあいだの絶妙なるバランスを試行錯誤で模索する以外にないと思っている。

<p.123>
 経済学の考え方は唯一無二のものではなく、多様であるからこそ価値がある。そして、それが、私の持論でもある。

 

 他にも、現代の資本主義を「混合経済」として捉える視点などは重要だと思われます。

 違和感を覚えた部分としては、フリードマンのマネタリズム批判において、カルドアの内生説が紹介されているところです。内生説は重要だと思いますが、カルドアのそれには少なくない問題点があると思われます。そこの掘り下げが不十分な気がしました。まあ、新自由主義批判という本書の性質上、仕方のないところではありますが・・・。
 例えば、カルドアの〈貨幣ストックが需要によって決定され、また利子率が中央銀行によって決定されるという事実を変更するものではない(p.68~69)〉という意見には落とし穴が潜んでいると思われます。マネー・サプライについて、〈ミンスキーは、減らそうと思っても減らせないという観点から内生説を主張する(p.173)〉と紹介されています。しかし、ミンスキーとカルドアには、それだけではない相違点があると思います。
 渡辺良夫氏の「内生的貨幣供給と流動性選好」という論文では、〈ミンスキーによれば、貨幣供給が内生的となるか外生的となるかは経済的・制度的な条件に依存し、典型的には貨幣供給の一部分は内生的であり、また一部分は外生的となる〉と紹介されています。この見方が正しいのだと思われます。「外生説」には問題がありますが、それを否定してカルドアのような意味で「内生説」を主張する(Horizontalist Approach)のも間違っていると思われます。なぜなら、貨幣供給が完全に内生的であると仮定すれば、貨幣の流通速度は一定不変になってしまうからです。
 中央銀行は短期利子率に対して一定の裁量範囲を持ってはいますが、準備需要増大を常にすべて充足するとはかぎりません。そのため、貨幣には外生性も内生性もあるという簡単な話になります。
 ちなみに、貨幣には内生性があると言っておくと、ピグー効果がなりたたない可能性を指摘できるようになります。

 帯で百田尚樹氏が絶賛していたので読んでみました。祖父たちの戦争について、10名の人生が綴られています。
 読んで思ったことは、けっこう各人で考え方に違いがあるということです。例えば、戦争観、天皇について、自決について、などなど。
 画一的な歴史観で語られることもあるあの時代ですが、あの時代に生きた人々は、それぞれに様々な考え方を持って生きていたことが分かります。その中に、何か真の通った考え方も見つけることができそうです。
 先人たちの言説を参照するということは、当たり前の話ですが、重要なのだと思います。

  小林秀雄という人物がある種の天才だということは、例えば次の文章だけで十分に理解できることと思います。

 同胞の為に死なねばならぬ時が来たら潔く死ぬだろう。僕はただの人間だ。聖者でもなければ予言者でもない。
 (『戦争について』より)

 小林秀雄は魅力的な人物であり、いわゆる小林秀雄論もたくさんあります。その中において本書は、論理的に論理的な破綻に魅入られるという、とてつもない筋道を辿っています。著者の面目躍如ですね。
 それにしても、小林秀雄の女性関係は、かなりぶっ飛んでますね。天才は、狂気をはらんだ女性に惹かれるのでしょうか・・・。小林秀雄の人生そのものが、一つの物語として(特に面白いという意味で)秀逸なのですよね。

 今更ですが・・・、百田尚樹さんの『影法師』を読んでみました。
 百田さんの作品については、圧倒的な信頼感がありますし、どこの本屋にも置いてあります。そのため、出張先などで持っていった本を読み切ってしまったときのために、あわてて読まずに取っておくのも一つの方法ですね(笑)
 そうです。出張先で買って読んだわけです。

 ありきたりな表現ですが、大傑作ですね。泣くわ~、これは。

 主要な登場人物たちが、まさしく高潔と呼ぶに値する人間なのですよね。

 あえて言うなら、彦四郎が勘一に「友の夢を聞いて、簡単に忘れられるものではない」という台詞があるのですが、ここは「夢」ではなく「志」と言ってほしかったなぁ・・・。まあ、細かい話なのですけどね・・・。

 また、勘一が老女と話したとき、老女の言った「わしら百姓は死ぬまで働く。働けなくなった時が死ぬときですじゃ」という台詞は、深いですね。とても深いです。

 『永遠の0』も紛れもない大傑作ですが、この『影法師』も素晴らしいです。読んでよかったです。

 『哲学ごっこ』に、『スティーブン・ローの『考える力をつける哲学問題集』で哲学する。』を追加しました。

 けっこう否定的に書いていますが、面白かったです。