さて、昨日は「戯れ言」と題した随筆を書きました。
我ながらなかなかの出来だと思います(苦笑)。この文章は思想的ですが、これを基にして、さらに哲学的に考えてみようと思います。
まず、公共性が私欲に基づいている可能性について。
日本と言えば「無私」の思想と言われたりしますが、この考え方はあんまり正しくないと思います。日本の思想史上で、実際に「無私」の価値を説いた人って、あんまり多くないはずなんですよ。
もし、無私を説いた有名どころの人物を知っていたら、私に教えてください。小林秀雄みたいに無私の価値を説いておきながら、あんまり無私に振る舞えていない人がいたりして面白いですけどね・・・。
で、何が言いたいかというと、無私が公共性に必ずしもつながらないということです。それどころか、私欲が公共性につながるということもあるのです。
ちなみに、アダム・スミスの「見えざる手」とは別の意味です。
つまり、私欲に満ちた行動が意図せずに社会のためになるということを言いたいのではないのです。ここで言いたいことは、公共性を主張することが、私的な快楽だからそうしている人がいるということです。
はっきり言ってしまうと、公共性を武器にして自分の満足感を得るという行為が、割とありふれて存在しうるということです。
そして、それは、論破されることによって公共性と私欲の対立へと分裂するという、端的な現象を明らかにしているだけです。
その結果は如何?
私のたいしたことのない人生経験から言わせていただければ、そこで公共性に比重を傾けられる人というのは、極めて少ないというのが本当のところです。
さらに、もう少し余計なことを付け加えれば、論破までいかなくとも、その人の議論の進め方を見れば、けっこう分かっちゃったりするのですよね。その人が、実はどっちなのかって。まあ、これは蛇足です。
さらに、別の観点から哲学的な議題を持ち出してみましょう。
仮に、「仮に」他人を非難することが大好きで公共的なものにまったく価値を見出していない人がいるとします。さらに、その人はとてつもなく頭が良かったとします。
そのような仮定を置いた場合、その人は、生前も死後も、聖人として評価される可能性があるということです。
分かるでしょうか?
分からない人は、少し考えてみるも良し、別のことに興味を移すことも良し、です。
お久しぶりです。
相変わらず、良い内容なんで、「戯言」と「続・戯言」をtwitterで貼らせていただきました。
このブログにも埋め込みボタンがあるといいんだけどなあ(笑)
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時間があるときにでも検討してみますね。