他者を批判するときには、その根底にはしっかりとした理論がなければなりません。
しかも、その理論を自分がしっかりと納得していなければなりません。
これらの当たり前の礼儀を欠いている者は、他者を批判した咎により、いずれ自身が批判されることになる可能性が高まります。
これは一見して当たり前のように思われますが、この視点を喪失しているように見える方々もけっこういるように思われます。
世の中に存在する、ある側面からの一つの真理を述べておきましょう。
他者批判とは、一種の快楽なのです。
そこには、社会のためだとか、公共性とかいった綺麗な言葉を隠れ蓑にした、とても嫌らしい感情が蠢いていたりするのです。
しかも厄介なことに、それを本人が自覚していない場合も多いのです。
社会とか公共性とかいった言葉に隠された本心が本物か偽物かの判断は、議論によってあぶり出すことが可能です。
すなわち、その者の他者批判の論理的欠点を指摘するのです。
そのとき、その者がどのような態度を取るかで、その者の本心があぶり出されるのです。
自分は悪くないという態度を伴う、ひどいダブルスタンダードを見ることができるかもしれません。
俗に言う、他人に厳しく自分に甘いという態度です。
知的誠実性を伴わぬ、そのような態度を見ることは、あまり気持ちの良いものではありませんね。
私は、私がそのような者ではない、などと言うことはしません。
ただ、このような可能性には自覚的ではあろうと心掛けているつもりはあります。
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