2013年10月アーカイブ

 さてさて、『道士郎でござる』のワイド版です。
 いや~、めっちゃ面白いです。小説も良い感じです。
 どうして、こういう話が書けるのでしょうかねぇ。作者の頭の中は、どうなっているのでしょうかねぇ。
 道士郎が格好良いのは当然として、やっぱり一般人の健助が良い味出してますよねぇ。

 

健助「目を見ればわかる。その人の人となりは。」
エリカ「フン、そりゃありがたいねぇ。そりゃ勘ってやつかい?」
健助「勘だよ。君はやってない!!」 

 

 健助、かっこいー。ここのシーンは、しびれますね。ここでぐっと来ないやつとはお友達にはなれませんね。
 やっぱり、時代は武士だな(遠い目)

 『漫画は思想する』に、『アホガール(2) (ヒロユキ)』―アホの知とアホの愛―を追加しました。

 今回も、アホによってあばかれる世の中の真理をご覧あれ。

『表現者51』

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 表現者51の特集は、<保守による「保護主義」のすすめ>です。リーマンショック後の世界を生きているわけですから、どこかの首相みたいに自由競争主義の亡霊と化していない限り、保護主義の必要性は小学生にだって分かる話なのですよね。そのため、特集座談会の<「自由貿易」が日本を滅ぼす>も、そりゃそうだろうという感じで読めました。
 個別の論文でも、その当たり前のことが的確に語られています。佐伯啓思氏は、〈保護主義の方がまずは基本にあるべきなのだ。一般論としていえば、自由競争主義と保護主義の間のバランスもしくは組み合わせこそが経済戦略といわねばならない〉と述べています。柴山桂太氏は、〈必要なのは、市場競争と社会保護をバランスさせる智恵を、国内的にも国際的にも取り戻すことだ。そのためにも、まずは保護主義のタブーを打ち破らなければならない〉と述べています。中野剛志氏は、〈保守主義者は、保護主義者だったのである〉と述べています。どの意見も、もっともです。

 あと、もう一つの座談会<明治の精神>で、少し気になったことがあります。それは、西部邁氏が、〈佐伯先生と僕の間に深いのか浅いのかはともかく溝があって〉と述べておられる箇所です。私には、『表現者48』の座談会<「無」について>を振り返ってみても、お二人の間の溝はとても深いのではないかと感じられるのです。その溝を感じるとき、悲しみではなく哀しみの感情が浮かび上がってくるのです。
 その溝にも関係してきますが、佐伯啓思氏が、〈「敗北の美学」みたいなものですね。それに影響されたのは特攻なんです。ただそうなると厄介なことに、それを「保守」と言えるのか分からない〉と述べている箇所があるのですよね。この「保守」では捉えきれない何かが、その溝の一部に関わってきているように私には思えてならないのです。もちろん、溝に潜む何かは、それだけではないと思いますが。
 この溝に潜む何かは、佐伯氏の今後の著作によって暗示されてくるのだと思われます。

 本書は、〈「経済成長への夢」「バブルの宴のあと」「競争とは何か」という三つの大きなテーマ(p.7)〉について優しく解説がなされています。
 本書の最後のところで、根井氏は次のようなことを述べています。

 

<p.98>
 私には、古典派の競争観のほうが「完全競争」を基準にした競争観よりも現実に即しているように思われますが、もちろん、このような考え方を他人に強いるつもりはありません。むしろ「経済思想の多様性」を主張してきた自身の立場からは、経済学史の中からできるだけ多様な思想を学び、みずからが経済問題を考察するときの参考にしてほしいということです。

 

 この考え方は、根井氏の経済学に対するスタンスを端的に表しており、非常に好感が持てます。ですが、そこで満足するのではなく、ここからもう少し考えてみることができるように思えます。
 ここで根井氏は、二つの価値観を提示し、その二つについて明確に優劣を付けているわけです。一つ目は、ある経済観より他の経済観の方が良いという考え方、二つ目は、多様な経済思想を学ぶのが良いという考え方です。
 前者より後者を重視するというのは、学者的ですよね。一方、後者より前者を重視するのは政治的ですよね。政治については、様々な意見を参照すべきですが、何らかの経済的政策を採用する必要があるわけですし。
 それでですね、学者でも政治家でもない場合は、学者性も政治性も含めて考えていく必要があるということですね。そもそも、多様な思想を学ぶべきだといっても、そこには学ぶ順序や学ぶ量についての優劣の問題があるわけです。ですから、多様な思想を学びつつ、どのような経済的観点が良いかも判断し、その判断を基に、その判断の反対意見も含めて幅広く学ぶという循環を人生に組み込む必要が出て来るわけですね。
 人生って、まともに生きようとすると、けっこう大変ですよね。

 本書は日本国憲法の問題点について、会話形式で分かりやすく解説されています。
 現在の日本国憲法のいかがわしさに気づいていて関連書を読んでいる人には少し物足りないかもしれませんが、初心者には非常に分かりやすいと思います。
 もう、平和憲法の理念が好きな人は、パスポートにその旨を記載するようにしましょうよ(笑)
 海外で何かトラブルに巻き込まれても、武力を伴うあらゆる方法を排除しますから、平和主義の精神で乗り切ってくださいって(笑)
 その結果死ぬことになっても、平和憲法の理念に叶っているから本望でしょって(棒)

 本書は、自民党の西田昌司議員が、総理および国民へ直言を行っている書です。この発売時期と現在の安倍政権の迷走を思うに、政治家は大変だなぁと、月並みな感想を抱いてしまいます。いくつかコメントを少々。

 

<p.095>
 私の再三にわたるこうした指摘にもかかわらず、安倍総理は、TPP交渉参加を決断されました。しかし、条約を批准するためには、自民党内で議論した国益を守る基準をクリアしなければなりません。この基準を守れば日本にとって最悪の事態は回避できるはずです。交渉をしっかりと見守ってゆきたいと思います。

 

→TPPは、ねぇ・・・。もう完全に負け戦なのですが、問題は、負け戦を勝ち戦と勘違いしている首相ですよねぇ・・・。西田議員の奮闘に期待したいところですが、どこまで傷を浅くできるかどうか・・・。

 

<p.157>
 無駄削減を叫び、公共事業を減らし、政府の支出を抑えるばかりではGDPが減るのは当然です。また、法人税や所得税は所得に課税されますから、デフレで所得が減れば税収も増えません。そもそも、民間経済はデフレでは縮小してしまうのです。こうしたことの悪循環で経済はますます悪くなってきたのです。

 

→政治家は色々とたいへんだなぁと、申し訳ないのですが、他人事のように思えてしまいました。消費税については、ねぇ・・・。

 

<p.234>
 しかし、少なくとも今の私は、自分自身が納得する答えを自分なりに見出すことができたと思っている。当時、欧米の帝国主義が吹き荒れていた世界情勢の中で、孤塁を守っていた日本の立場を考えると、我々の先人達は皆良くやったということ以外ない。また、それが一番自分を納得させられるものであった。

 

→この文章は、2004年に西田議員が書いた論文からのものです。大東亜戦争で、日本がアメリカと闘ったことに対する疑問への回答ですね。
 ああ、この蛸壺史観にも自虐史観にも染まっていない考え方は素晴らしいですね。正直、この文章がなければ、感想を書く気力が湧きませんでした。ですが、この文章を見たことで、いや、余計なことはいいです。西田議員、今後も頑張ってください。

 さて、以前に佐藤健志さんの『震災ゴジラ』について感想を書きました↓

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/book/2013/10/vnc.html

 『震災ゴジラ』については、東田剛さんが感想を述べていますね↓

http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/10/09/korekiyo-65/

 先週は、消費税について東田さんと同じようなことを考えていて↓

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/10/post-549.html

 今週は、感想がかなり異なっていますね。

 東田さんのような聡明な方の意見については、同じになっても嬉しいですし、違う考えになると、それはそれでワクワクしてきますね。

> 日本人が「(アメリカに)去勢された状態を積極的に受け入れることこそ、
> 他国にたいして道義的優位に立ち、
> ひいては国際的な覇権を獲得する道だ」と思い込んでいることが
> 暴かれてしまうのです。
> 戦後の平和主義者が「憲法九条を世界に広めよう」とか言うのなんか、
> まさにそれです。

> しかし、佐藤氏は、反体制派・左翼のみならず、
> 体制派・保守派も同じメンタリティであると指摘します。
> なるほど、確かにそうだ。

 確かにそうです。

> さらに佐藤氏は、『バトルロワイヤル』等の解釈を通じて、
> 「戦後日本の体制派は、みずからをアメリカと同一視し、
> 『日本』の抹殺をはかることにより、おのれの立場を守りつつ
> 内心の自滅願望を発散、アイデンティティの虚妄性を糊塗してきた」ことを
> 暴露します。

> これも、図星でしょう。

 これも、確かに図星なのでしょう。
 にも関わらず、私は本書に否定的なんですよね。

 その理由は、例えば『震災ゴジラ』の中の次のような言葉にあるのですよね。

 

<p.187>
 われわれは近代日本の歴史に一貫した連続性を見出し、その成果と弊害を受け入れたうえで、真の自己肯定、ないし解放としての未来を志向してゆくべきなのである。

 

 「解放としての未来」って、何からの解放なのでしょうか?

 まあ、ここを見てくださっている皆様方は、東田さんが正しいと思っておいた方が良いですよ。気になる方は、『震災ゴジラ』を読んでみるのも一興かもしれません。面白いは面白いですから。

 

 面白いか面白くないかで言ったら、たいへん面白かったです。『ゴジラVSキングギドラ』の登場人物である新藤靖明の人生や、小松左京『地には平和を』の登場人物である河野康夫の考えなどは、素直に参考になりました。
 ただ、本書は一見して論理的に議論が進められているように感じられるかもしれませんが、ところどころに佐藤氏に特有な論理の飛躍が見られます。
 例えば、『時計じかけのオレンジ』について、〈あまつさえアレックスの年齢は、原作の記述によれば十五歳とくる。日本占領に際して連合国軍の総司令官を務めたマッカーサー元帥が、日本人を「(十二歳の)少年」になぞらえたことも、こうなると意味深長と評しえよう。第二次大戦におけるわが国は、まさしく「不良少年」だったのである(p.217)〉とあります。『時計じかけのオレンジ』の中には日本軍の蛮行が誇張された形で出て来ますが、これはさすがにこじつけが過ぎるでしょう。
 他にも、第七章の「『崖の上のポニョ』の真実」では、『もののけ姫』・『千と千尋の神隠し』・『ハウルの動く城』の三作品について、〈どの作品でも、主人公は自分を苦しめる年長者と対決するどころか、彼らの責任を追及しようとさえせずに、どうにか自力で呪いを解こうと努める。この点を踏まえるとき、映画の(ひそかな)メッセージは「上の世代に何をされても恨むな」だと言わざるをえない(p.237)〉と述べられています。少なくとも『もののけ姫』のアシタカは、エボシに文句を言っていたような・・・。まあ、でも、『崖の上のポニョ』についての考察は深かったですし、ためになりました。
 本書で最も問題な点は、佐藤氏の大東亜戦争についての認識です。その認識については、私には違和感が拭えませんでした。
 佐藤氏は、〈本土決戦を遂行していれば、先の戦争をめぐって、日本は「国としての筋」を通せたに違いない。だとしても、本土決戦の発想自体は、欺瞞的な「死に急ぎ」だったのである(p.63)〉と言います。まず、ここの論理がよく分かりませんでした。筋を通せたことが、なぜに欺瞞的なのか? ここの謎は、本書を読み進めていくうちに明らかになっていきました。
 佐藤氏の歴史観が決定的に示されているのは、〈現在、回復されるべき「ごく当たり前な常識」とは、「祖国を守るべく命を捨てるのは立派な行為」などではなく、「主体性なきところには、犬死と変節あるのみ(=人々のアイデンティティが形骸化した社会では、命を犠牲にしたところで本質的なものは何も守れない)」だと言える(p.153)〉という文章です。つまり、〈たとえば昭和前半期の日本の行動は、欧米の植民地支配からアジアを解放しようとした点では「善」ながら、自滅的な敗北にゆきついた点では「悪」(少なくとも「愚劣」)であった。まして大量破壊兵器が世界的に拡散した現在、戦争の是非をめぐる選択の自由を個々の国家に与えつづけるのは、下手をすれば世界全体の命運をもおびやかす(p.219)〉という歴史観なのです。
 まず、昭和前半期の日本の行動を、大量破壊兵器拡散後の世界の命運と結び付けている点がまったく意味不明です。さらに、主体性という言葉の用法も意味不明です。主体性とは、仮に一国の運命が無謀へと突き進んだとしても、その中であがく個人の行為の中に見出されるものだからです。
 佐藤氏が、〈そんな戦いに突入したこと自体、社会の中核をなす大人世代が、自分たちの「良い未来」を相対化する視点を持ちえなかった表れではないだろうか(p.234)〉と述べていることから分かることが一つあります。それは、佐藤氏の言動が、小林よしのり氏の言う「蛸壺史観」以外の何者でもないのではないかということです。主体性がないから出て来る史観なんじゃねえのかと、皮肉の一つも言いたくなります。
 さらに佐藤氏は、〈現在の日本は、「生まれてきてよかった」ことと「生まれてきても良いことはない」ことがイコールになってしまう国だと言える。そんな国にわざわざ生まれてくる価値があるか、これはきわめて重大な問題であろう。もし答えが「否」なら、われわれには良いものであれ悪いものであれ、未来が存在しないことになるのだ(p.247)〉などと言っています。インテリ風情が、自分の言葉におぼれて発した感が丸出しだと感じられました。揚げ足を取れば、答えが「否」だからこそ、われわれには未来が間違いなく存在するのだ、とも言えるからです。
 私は、私に賛同してくれる仲間がいないことを承知の上で、<自滅的な敗北にゆきついた点では「悪」(少なくとも「愚劣」)>と見なす考え方とは、端的に敵対することにします。そういった観点を明確に指し示すといった意味でも、本書はある意味で面白かったです。

 本書は、ハイマン・ミンスキーの経済学を基に金融について論じられています。ミンスキーの考え方には、参考にすべき論点が含まれています。参考になると思われる箇所について、以下にいくつか挙げてみます。


<p.14>
 ミンスキーは「資本主義の多様性」を強調し、状況によって望ましい政策は変わると主張してきた。ミンスキーが今生きていたら、昔と同じ主張をしたとは限らない。


<p.38>
 標準的ケインズ解釈の欠陥は、貨幣、不確実性、資本主義経済の不安定性の三点を理解できていないことにあるとミンスキーは考えた。もっとも、この欠陥は本来、均衡論的な経済学が持つ欠陥である。


<p.99>
 ミンスキーは金融システムの安定性は安全性のゆとり幅によって決まると論じる。それは、現金の受取に対する負債の支払い負担、負債額に対する正味資産もしくは自己資本、現金もしくは流動性資産に対する負債の比率によって示される。具体的な指標には違いがあるが、何れも負債の負担度を示していることには違いがない。


<p.102>
 金融不安定性仮説は、景気循環に同調する信用の拡張・縮小によって、バブル、バブル崩壊、それにともなう金融危機、経済停滞という一連の過程を説明する。


<p.171~172>
 ミンスキーは財政赤字は利潤を下支えすると論じていた。ミンスキーの意味では財政政策の効果は大きかったと言える。
 ミンスキーは予防策も無視したわけではない。彼は金融規制と金融政策によって、ポンツィ金融の拡大を抑えるべきだと論じていた。もっとも、金融の技術革新は旧来の規制を空洞化させるから、実際にそれを達成するのは困難であると考えていた。


<p.254>
 ミンスキーによれば、市場に任せるべきものと、任せるべきではないものが存在する。そして、市場がうまく機能するためには、政策によって市場の失敗、暴走を抑えなければならない。したがって、市場の失敗や暴走を押さえることができる経済学のみが役に立つ経済学である。他方、市場を擁護する経済学は市場の失敗や暴走を食い止める手段を持たない。その結果、市場が暴走し、自滅する。これは新自由主義経済に対する原理的な批判である。

 

 本書は、前作の『金融政策の誤算』の続編と位置づけられています。
 気になった箇所にコメントしていきます。

 

<p.48>
 これを考えれば、乱脈経営によって自滅した銀行を救済するよりも、初めからこういうことがおきないように規制した方が合理的であろう。

→揚げ足を取っているようで心苦しいのですが、規制の必要性については賛成ですが、おきないようにすることは無理だと思います。自滅を防ぐような規制を施しつつ、いざというときの救済という両面を考慮しておくべきだと考えます。


<p.90>
 それでは他に金融政策の波及経路はないのだろうか。全く可能性がないわけではない。金融緩和によってドル安が生じると、それが輸出を促進するであろう。二○○一年-○六年に日本で実施された量的緩和政策は、結局のところ、デフレ脱却には失敗した。しかし、円安によって、当時の輸出ブームを支えていた。

→金融政策については、円安を誘導させる効果がある点については注目すべきですね。円安(または円高)を誘導できるということは、様々な波及効果が見込まれますね。諸刃の剣であるという側面も無視できませんけどね。

 

<p.153>
 準備預金を増加させれば、預金が増加するという考え方は、自動車部品の供給を増加させれば、自動車の生産が増加するという考え方と同一である。銀行は預金に応じて、準備預金を積まなければならない。これは自動車生産のために、部品が必要であるのと同様である。世界同時不況の中で自動車の生産は急減した。そこで自動車生産を回復させたいと考えた自動車部品メーカーは、大量の部品を供給したとしよう。そうすると、自動車の生産が回復するであろうか。回復しないと誰しも考えるであろう。代わりに大量の供給された部品が過剰な在庫となることも、誰が考えても理解できるであろう。
 自動車部品メーカーが過剰な部品を供給しても、部品が余るだけである。同様に中央銀行が不要な準備預金を供給しても、過剰準備となるだけである。

→ここは、慎重に検討すべきです。一つの例えとしてなら理解できるのですが、準備預金を自動車部品と「同一」と考えることには、少なくない危険性があると思われるのです。
 なぜなら、自動車部品は自動車を作ることにしか使えませんが、準備預金はお金ですから、様々なことに使うことができるわけです。この差は、かなり大きいと考えることができます。不況において自動車生産が急減することはもちろんあり得ますが、そのとき、他のすべての生産が急減するわけではないからです。

 

<p.186>
 社会保障費の増加も、家計の所得を維持し、経済の悪化を食い止めると言える。けれども、社会保障費の増加の原因は高齢化であり、以前からの傾向である。経済の悪化を食い止めるためには、社会保障費を今まで以上に増加させなければならないが、それは生じていない。

<p.205>
 日本の場合も政府の財政悪化の原因は、税収の落ち込みと、少子高齢化による社会保障の負担増加である。

→ここの<p.186>と<p.205>の発言を総合すると、少子高齢化による社会保障の負担増加が財政を悪化させているが、もっと社会保障費を増加させれば経済の悪化を食い止められるということでしょうか?
 分からなくはないのですが、けっこうジリ貧な気もします。現在のエコノミクスとしての経済学では、(正統だろうが異端だろうが)デッドロックに陥る問題だと思えるのですよね。では、どうすれば良いか?
 その回答は、もちろん社会学や政治学に関わるわけです。その解答については、いわゆる経済学者や大学教授には、やっぱり言えない内容ですよねぇ。

 

 本書は、日本の経験を通じて金融政策について論じられています。その上で、アメリカのバーナンキやグリーンスパンが徹底的に批判されています。その批判は筋が通っていると思います。
 特に以下に示す記述などは、参考になると思います。

 

<p.87>
 長期金利の低下も円安も、それ自体が目標ではなく、デフレ脱却のための手段である。デフレ脱却に役立たないとするならば、意味がない。

 

<p.104>
 ただし、需要と供給の区分は説明の便宜上の話であり、賃金引き上げを単純なコスト・プッシュと考えるのは必ずしも正しくない。賃金の上昇は労働者の所得上昇を意味するので、需要を増加させる効果を持つ。賃金上昇は需要サイドからのインフレ圧力も作り出すのである。逆に原油価格の高騰は外国への所得流出をもたらし、需要を減少させる。費用を引き上げる点では同じでも、需要に与える効果は正反対である。

 

<p.116>
 この輸出増加に対して、円安政策が一定の意味を持ったことを筆者は否定するものではない。

 

<p.155>
 量的緩和政策はデフレ克服には役立たなかったとしても、破綻が懸念される日本の財政を下支えする効果を発揮したと言える。

 

<p.174>
 こうして輸出(輸入削減)主導型の景気下支え政策は、世界同時不況を悪化させるであろう。

 

 本書は、貨幣供給の内生説という考え方に立って議論が進められています。気になる記述についてコメントしてみます。


<p.15>
 経済の世界、特に金融の世界には期待の自己実現がしばしば見られる。例えば、株価や為替レートについて、合理的な根拠がなくても、多くの買い手がある株やある通貨の価格上昇を信じて購入すると実際に上昇する。国民の多くが、合理的なメカニズムがなくても、量的緩和政策がインフレをもたらすと信じれば、インフレが起こるかもしれない。もっともこの場合、インフレ期待の起点は何であってもいいのであり、なぜ量的緩和政策なのかを理論的に説明することはできないであろう。

→これは、確かにその通りですね。
 ここで気になる点は、内生説の観点から、どのように期待を生むことができるかということですね。より整合性の高い理論が、より高い期待を生むとは限らないということに注意しておくことが必要だと思います。もちろん、整合性の高い理論によって高い期待を生むことは可能ですが、そこにはいくつかの難しい問題があるわけですね。


<p.42>
 我々はマネタリーベースの増減はマネーサプライの増減と必ずしも対応しないと考える。したがって、我々の主張する貨幣の内生性は中央銀行の政策に依存しない。

→そのような定義をおけば、その通りになるとは思います。
 例えば、マネタリーベースの増減が、銀行の貸出の積極性に影響を及ぼすと想定するのなら、多少は依存すると思われます。そして、その影響を無視してよいかは、無視し得ない論点だと思われるのです。


 本書の<p.50>の記述は、私には不可解に感じられました。まず、〈現在の日本で通常用いられる貨幣指標はM2+CDである。M2+CDの90%以上は銀行預金である〉という客観的な状況が示されます。その上で著者は、〈実際には貨幣とは銀行預金を意味する〉と述べているのです。ここの貨幣の意味づけは、さすがにまずいでしょう。
 この意味づけの上で著者は、バーナンキが現代の貨幣システムを不換紙幣システムと見なしている点を批判しています。まあ、バーナンキが非難されるべきだとは思いますが、議論の進め方として、ちょっとどうかなと感じてしまいました。その批判に、〈ここに理論と現実の乖離が見られるであろう〉という文言があれば、なおさらです。


<p.86>
 「すべてがすべてに依存する」というのは抽象的には正しいかもしれない。しかし、実際の計量モデル、特に小型モデルではすべての変数を入れることはできない。また独立変数の間に相関関係がある場合には、変数を増加させれば、モデルの精度が上昇するというものでもない。そこで変数の選択が重要になる。しかし、従来の貨幣乗数の決定モデルではマネタリーベース増加率という決定的な変数を除外してきた。しかも、そのことによってデフレや景気といったそれ事態は影響を持たない変数を重要であるかのごとく錯覚させたのである。

→う~ん。モデルにマネタリーベース増加率という変数が必要という主張だけなら、同意できます。しかし、デフレや景気という変数を影響がないと見なすのは、どうなのでしょうか・・・。私には、同意できませんでした。

 

 本書では、経済学におけるポストケインジアンの内生的貨幣供給理論について、丁寧にまとめられています。
 内生的貨幣供給について論じている本は、あまりないので参考になります。歴史的な理論の展開などが丁寧に記述され、著者の言葉使いも慎重さが見られているので、安心して読むことができました。
 内生的貨幣供給を説く各論者の言葉を紹介しながら、著者がそれらを良く理解して記述に配慮が行き届いています。こういった海外の情報を日本で日本語で読めるのって、たいへんありがたいことですよね。