普遍と特殊の問題って、意外とめんどくさかったりすると思うんだ。
例えば、日本人の場合で考えてみるけど、
日本の思想に惹かれる場合もあれば、
普遍的な真理に惹かれる場合もあれば、
イギリス流の思想に惹かれる場合もあれば、
フランス流の思想に惹かれる場合もあれば、
アメリカ流の思想に惹かれる場合もあれば、
マルクス主義に惹かれる場合もあれば、
主体思想に惹かれる場合もあるわけですよね。
分かりやすくするために極論を出せば、
日本人なんだから日本の思想に惹かれるべきだとか、
どんな思想に惹かれたって良いじゃないとか、
そういう考え方がありますよね。
前者は排外主義で、
後者は一見して相対主義に見えるけど、その実は自由主義の一種ですね。
まあ、私はこの両極端はダメだと思うわけです。
私は日本の思想を紹介しているホームページを運営していますけど、
その思想を他人に強要しようとは思わないわけですね。
となると、どの程度のレベルで考えて行動するのかという視点が必要になりますよね。
上で述べた例で言うと、アメリカ流の思想まではOKだけど、マルクス主義や主体思想はさすがに許せないとかですね。
そうすると、その線引きはどうやってなされるかという問題が出て来るわけですよ。
無理矢理、その線引きの基準を定義したとしても、その基準そのものは、どうやって正当化されるのかという問題が発生してしまって、さらに、その基準の基準は何なんだという風に、根拠を問う議論は無限に続いていってしまうことが予想できてしまうわけです。
その基準を問う循環の迷路があるわけですが、ハイデガーなんかは、『存在と時間』の中で、〈決定的に重要なことは、循環のなかから脱けだすことではなく、まともな仕方でそのなかへ入りこむことである〉と述べています。
まあ、ある意味で、人間はそれぞれが、自分勝手に自分の責任において、みずからの思想をもって、他人に対峙しているということです。そのため。各人は友達になったり、敵同士になって戦ったりするわけですね。
世界は、そういった循環構造があり、便利な一意の解答に到達できるほど単純ではないということなんですね。その世界の豊饒性について、面白いと思うかどうかも、人それぞれですけどね。
私は、このことは、世界を楽しむための前提条件だと考えていますけどね。
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