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2013年9月アーカイブ

 明日からまた出張です。福岡に行ってきます。

 返ってきたら更新再開します。

 カズさんが以下のコメントをしてくれています。

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-543.html#comment-99


 このコメントを基に、少し論じていきます。

> 実は現日銀副総裁の岩田規久男もその著作の中で
> 「貨幣の供給は銀行の信用創造に依存する」ということを述べています。
> そこからリフレ理論に飛躍するのは理解不能ですが。

 そうですね。
 無理に解釈すれば、
 異次元の金融緩和は期待を喚起することによって、
 景気回復を狙う政策と見なせるかもしれません。
 「資金供給量を2年間で2倍に拡大する政策」ではなく、
 「異次元の金融緩和」という突飛な表現がそれを示していると思います。

 こういった視点を持つと、
 アベノミクスの第一の矢と第三の矢をプッシュして、
 第二の矢を抑えようとする人の心理を推測することができそうです。

 一部の保守派などからすると、
 第一の矢と第二の矢をプッシュして第三の矢は抑えるのが良いと考えそうです。
 私もそれが良いと思います。
 しかし、この政策は、実は期待値の最大バージョンではないのですよね。
 もちろん、国民の大多数がこの政策が良いと判断していれば、
 この政策の期待値が最大になるわけです。

 ですが、現在の日本国民の大多数の期待値が最大になるのは、
 異次元の金融緩和をし、財政赤字は拡大させずに、成長戦略をきちんとしますよ、
 ということでしょうね。確かに、世間の期待は上がりそうに思えますね。
 (実際は、あまり上がっていないわけですが)

 それに比べると、
 財政赤字を拡大させて、規制緩和などの成長戦略は止めにしますよ、
 というのは、世間の期待は下がりそうですよね。

 つまり、期待を無視した場合における最良の政策が、
 期待の面からは最高にならないということです。
 この点を注意深く考えて戦略を練る必要があると思います。

 私の考えでは、
 そもそも今の日本では期待はそんなにあがらないため、
 第二の矢の財政政策を徹底的にすべきです。
 そういった意味では、
 政策面ではおそらくカズさんと相違はないと思います。

> 内生的貨幣供給論を
> 「貨幣供給の内生性を強調した信用貨幣論」と呼ぶことができるなら、
> 外生的貨幣供給論は「貨幣供給の外生性を強調した信用貨幣論」と
> 呼ぶこともできますね。

 そうですね。その通りだと思います。

> 信用貨幣を前提にするなら、外生か内生かは最重要ではないということなのでしょうね。

 そうですね。
 もうちょっと補足すると、内生か外生かの二者択一ではなく、
 その相互作用こそが重要だと思うわけです。 

> もっとも、外生的貨幣供給論を基にした政策の多くは信用貨幣について
> 多くを考えていない気はするのです。

> 個人的にはそこが気になります。

 そうですね。まったくその通りだと思います。
 その点では、私とカズさんに相違はないような気がします。

 ちなみに私は、内生性は重要だと思うがゆえに、
 カルドアみたいに「貨幣供給が外生的ではなく内生的」という考えに
 ちょっと待てよと思ってしまうわけです。
 ぶっちゃけ、レイやポーリンが水平派を批判したことにとても共感してしまうわけです。

 あと、カズさんが誠実にコメントを返してくださったことに感謝します。

 

 カズさんが以下のコメントをしてくれています。

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-541.html#comment-98


 このコメントを基に、少し論じていきます。

> ただ、金融不安定性によって「MB→MSへの波及」が起きるとしたら
> その場合の波及経路はどうなるのでしょうか?

> その経路は重要だと思います。

 その通りですね。その経路は私も重要だと思います。
 そして、私が勝手に重要だと思っているのは、
 「経路は正しい理論からだけではなく、間違った盲信によっても発生する」ということです。
 我ながら、なかなかの名言(迷言)だと思う(笑)

 今現在の日本で投資が伸びていない理由は、
 大抵の日本国民が、
 信用貨幣における内生性の観点から考えて、
 異次元の金融緩和は効果が薄いことを理論的に理解しているためだ、
 というのはさすがに無理があるでしょう。

 それよりも、
 バブル崩壊や長期に及ぶデフレで慎重になっている大抵の日本国民は、
 異次元の金融緩和には多分経済効果があるのだろうけど、
 もうちょっと数字的に効果が現れてから投資などをしようと考えているからだ、
 というシナリオの方が妥当性が高いと思います。

 逆に、東大教授などの偉い先生方が言っている政策だし、
 それに異次元にやり続けるってんだからこれに乗り遅れると損をするなぁ、
 と考える人が多数派になるようでしたら、
 過剰期待により経済は(良いか悪いかは別として)大きく動くことが予想されるわけです。

 例えば、私が小学生だった1991年に日本のバブルは崩壊したわけですが、
 そのときニュースでやたらと「土地神話」という言葉が出てきたのですよね。
 要するに、日本の地価は絶対に下がらないという根拠のない盲信だったわけですが、
 その盲信をみんなが共有することによって経済に影響を与えることがありえるという話です。

 つまり、
 「経済学的に間違った政策によって、
 経済学的に正しい政策も(色々な意味で)否定されることがありえる」ということです。
 経済学という学問をすると、こういった視点が抜けていく人が出てくるのは、
 私にとっては不思議な現象なのですよね。
 (まあ、その理由についてもある程度説明できるわけですが)

 私は、経済においては「一見して意味のないパフォーマンスが大きな効果を発揮する」
 ということも重視しています。

 私が無条件に尊敬している人物って、
 全人類史という規模でもそんなに多くはないのですが、
 その内の一人に山田方谷がいます。

 山田方谷(1805~1877)は、幕末・明治前期の陽明学者であり経世家です。
 幕末期に、松山藩の財政整理と藩政改革に成功した人物です。

 山田方谷の藩政改革では、藩札の信用を回復するために、
 藩札を回収して一日かけて燃やすというパフォーマンスを行ったんですよね。

 このパフォーマンスの有無は、
 藩政改革の成果に大きな影響を及ぼしたと私は考えているわけです。

 

 

 さて、前回のことは忘れて、気を取り直してもう少しだけ貨幣について論じてみます。
 内生的貨幣供給の歴史について、内藤敦之氏の『内生的貨幣供給理論の再構築』を参考にして少々述べてみます。
 内生的貨幣供給という概念は、意外に古かったりします。古典派の時代でも、内生的貨幣供給を主張する銀行学派と外生性を重視する通貨学派の間で通貨論争などが起きていたりしたそうです。そこらへんはあまり詳しくないので飛ばして、20世紀になると、ケインズの『貨幣論』が有名ですね。同時代のホートリーやロバートソンなども内生的貨幣供給に言及していたりします。カレツキなんかもそうですね。
 それで、いよいよポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論です。カルドアやムーアなどは水平派(ホリゾンタリスト)と呼ばれ、レイやポーリンは構造派(ストラクチャリスト)と呼ばれています。
 まずは、カルドアから。カルドアは、〈「安定的貨幣関数」に関する経験的発見への説明は「貨幣供給」が「外生的」ではなく、「内生的」であるということである〉と述べています。その根拠は、中央銀行の最後の貸し手としての機能です。つまり、〈貨幣当局が需要の変動に対して貨幣供給を一定に維持する力は信用貨幣に基づく貨幣的システムが中央銀行が信用のピラミッドが保たれるように保証しようとする限りにおいてのみ機能しうるという事実によって厳しく制限されている〉というわけですね。
 ですから、カルドアの理論においては、貨幣には外生性はなく内生性だけだということになります。ちなみにムーアは、貨幣供給の内生性について曖昧なところがあるようです。この水平派の考え方に対し、構造派が噛みついたわけですね。
 レイは中央銀行の役割について、〈連邦準備銀行は活発な役割を果たし、価格と量的制約の組み合わせを用いている。そしてこのことは連邦準備銀行は価格制約だけを用いて、受動的に準備需要を供給していると論じているムーアの立場とは矛盾する〉と述べています。つまり、〈現実には銀行と連邦準備銀行は活発なプレイヤーである〉わけです。
 他にもレイは利子率について、〈中央銀行はもし幅広い金融資産の流動性を保証するならば、利子率の制御を失うであろう。しかし、そのような保証は競売型市場の維持に必要である。中央銀行は利子率を決定出来ないが、それに影響を与えられる〉とか、〈短期利子率は完全には市場決定的ではない。というのは、多くの信用は既存の顧客にのみ給与され、信用割当は通常の場合であるからである〉と述べています。このことは、〈銀行は受動的に需要に応じて貨幣を供給しているのではない〉ことを意味しています。
 一方ポーリンも、〈利子率決定はもっぱら中央銀行によって開始され、制御される一方向の過程ではない〉と述べ、利子率の外生性を否定しています。
 ポーリンは他にも、〈中央銀行が完全に内生的に貨幣供給している場合には、負債管理を行うインセンティヴが生じない〉ことを指摘しています。銀行は単に受動的に貸出に応じている存在ではないのです。
 レイは水平派のアプローチについて、〈順応的でない中央銀行が存在するどんな経済にも適用不能である〉という批判を行っています。つまり構造派の立場では、〈貨幣供給関数は民間の借り手、貸し手、中央銀行の行動の複雑な相互作用である。中央銀行は貨幣的政策を実行するために量と価格の制約の組み合わせを用いる〉と考えられているのです。もちろん、量的な制御には限界があることは言うまでもありません。
 内藤は、〈現実の貨幣供給の過程においては、ストラクチュラリズムが主張するように、特に中央銀行は準備供給に対してある程度の量的制約を課すことが可能であり、外生的な側面は存在する(Chick and Dow, 2002)。こういった点を考えれば、貨幣供給が内生か、あるいは外生かは必ずしも、最も重要な論点ではないであろう〉と述べています。貨幣供給には内生性も外生性もあると言ってよさそうです。
 レイは、カルドアよりも銀行の機能を幅広くとらえているのです。そのため、最後の貸し手としての機能は金融システムの維持のために緊急時には必要ですが、金融システムの動揺を防ぐ役割でしかなく、むしろリスクの高い行動を銀行がとることを可能にしている面を強調しているのです。
 水平派は銀行の行動の内の貸出だけに焦点を当てており、構造派は銀行が積極的に利潤を求めて日々活動を行っている点を考慮している点も重要です。中央銀行も完全に受動的に準備を供給しているわけではなく、場合によっては量的制約を行っているのです。
 ちなみに、構造派には「構造的内生性」という概念もあり、これについても個別に論じる必要があるのですが、長くなるのでここでは置いておきます。
 これらの経緯があるため、内藤は内生的貨幣供給論について、〈この理論は、マネタリズムに対抗する形で登場したため、貨幣供給の内生性を強調しているが、信用貨幣を中心とした理論であり、その意味では信用貨幣論である〉と述べているのです。ここの「貨幣供給の内生性を強調」という点について、慎重に言葉を用いているなと感じられますね。

 

 今回は、ちょっと番外編で、貨幣というより議論について。

 さて、前回と前々回でカズさんと議論したわけです。
 ですが今の私には、
 そもそもこういった議論は不毛なのではないかという疑いがあるのです。

 なぜなら、次のようなツイッターでの意見もあるからです。

****************************************************************
https://twitter.com/yutaro0415T/status/382387643289333760
ゆろ?@yutaro0415T  
原理的に説明可じゃないか!というのは・・・・ 異端派は、「現実」ありきなんですよね。
2013年9月23日 - 23:14
****************************************************************
https://twitter.com/yutaro0415T/status/382388798560038912
ゆろ?@yutaro0415T  
まぁコメントすれば、「外生説」の核心は、Mの直接操作できるか否かではない。あなたの「外生説」の認識は枝の部分でしかない。でしょうかね。
2013年9月23日 - 23:19
****************************************************************
https://twitter.com/yutaro0415T/status/382389569858965504
ゆろ?@yutaro0415T  
枝の部分、「Mの操作可能性」を持ってきても、別に外生説が成り立つわけではありませんよ。
2013年9月23日 - 23:22
****************************************************************
https://twitter.com/yutaro0415T/status/382391069943406592
ゆろ?@yutaro0415T  
話が噛み合わないのはそこでしょうね。こちら側は、外生説の核心を「MBからMSへの波及」だとするのに対して、「MSの操作可能性」だと認識しておられるわけです。
2013年9月23日 - 23:28
****************************************************************

 まあ、
 外生説の核心は「MBからMSへの波及」なのかなぁとか、
 貨幣の外生性は言ったけど、外生説が成り立つなんて言ってないよなぁとか、
 そういう細かいところはありますが、それらもどうでも良いです。

 まあ、いますよね。
 本人の前では「素晴らしいです」とか言っておいて、
 他の人たちのところでは「あいつ核心分かってねえ(笑)」とか言う人って。

 定義についても少し議論しましたが、
 原理と現実についてのこのつぶやきを見たなら、
 実はまったく分かり合えていなかったことが明らかですね。
 単に理解できていなかったのなら別に問題ないのですが、
 「適切な表現ではありませんでした」とか言っておいて、
 実は単に降りだったというのですから、実に不毛ですね。

 カズさんや他の見ていただいている方へのお願いなのですが、
 私は、こういったことはものすごく不毛なことだと思うのです。

 ですから、
 このようなことをするくらいなら本ウェブサイトなど見ないでください。
 お願いします。

 まあ、人間なのですから、本音と建て前の使い分けをするときもあるでしょう。
 ですが、そういうときは、最低限ばれないようにした方が良いと思います。

 ちなみにですが、
 私はほとんどの経緯をリアルタイムで知っていましたので悪しからず。
 なので、内生派のカズさんが、どうやって内生派になって、
 なぜこのタイミングでこのような意見を言ってきたのか?
 その背景もおおよそ予測がついております。

 見逃そうと思っていたわけですが、
 さすがに私のやる気が持たないのと、
 今後の似たような事態の防衛も兼ねて言っておくことにしました。

 ので、カズさんはこのままフェードアウトするも良し。
 もし今後もコメントなどをしてくださるのでしたら、
 ツイッターなど裏で別のことを言うのは止めていただきたいのです。
 まあ、カズさんはそのようなことはしなさそうだと感じていますが、念のため。

以上、駄文、失礼いたしました。

 前回からの続きで、カズさんの回答について議論していきます。

> 以上を踏まえてヘリコプター・マネー論について述べたいと思います。

> そもそもヘリコプター・マネー政策と言うのは、
> 国民一人一人への直接給付もしくは減税を行い、
> そのコストとなる財源を日銀の国債引き受けによって賄うというものです。
> この政策内容に関しては外生説であれ内生説であれ同一の内容になります。

 う~ん。まず、外生説と内生説では、違う政策になる可能性はあると思いますよ。
 財源も、日銀の国債引き受け以外の可能性があるでしょう。
 (なぜ私がこの点にこだわっているかは理解できないでしょうが・・・)

 あと、外生説であれ内生説であれ同一の内容になると考えるなら、
 オッカムの剃刀の問題が出てきますね。念のため。

> ポートフォリオ・リバランス効果というのは、
> 「マネタリー・ベースが増大しても貸出は増加しない」
> という量的緩和政策に対する批判への答えとしてよく持ち出される理論です。

> 具体的には「銀行の貸出が増加しなくても、
> 銀行による証券保有の増加を通じてマネーサプライを増加させる」という理論です。
> 証券保有の増加は現実では国債保有の増加になるので、
> その国債を発行する政府が必要になるわけです。
> そしてこのポートフォリオ・リバランス効果が実際に現れていたのが高橋財政のときで、
> 逆に量的緩和政策の時期には生じていませんでした。

 う~む。まあ、分かるよ。
 でも、もはや私しか気にならない次元の話なのかもしれないんだけど、
 マネタリー・ベースを増大させたとき、
 貸出は増える場合も増えない場合もあるわけだよね。

 そこには、インフレ・デフレや好景気・不景気などの経済状態や、
 人々の期待などが影響してくるわけだよね。
 「保守主義の経済論」で中野さんが言っていたことを引用するけど、
 金融市場は本質的に不安定だと考えるわけ。

 だから、貨幣数量説論者とはまったく違う観点から、
 人々の期待というものを考えておく必要があると思うのですよ。

 だから私は内生派が言うように
 「MB→MSへの波及」を否定してしまって大丈夫かなと思うわけです。

 その波及は、今の日本のように期待が働かないから効果がほとんど出ない場合もあれば、
 根拠がなかったり間違っていたりする過剰期待によって暴走する場合もあると思うのですよ。
 金融市場は本質的に不安定だと考えているから。
 だから、波及の否定ではなく、波及の不安定性を考慮するという立場になるわけだね。

(もうちょっとだけ続きます)

 カズさんが、私の質問に対し回答してくれています。

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-533.html#comment-97

 この回答を基にし、議論を続けたいと思います。

> まず、そもそも「内生説」と「外生説」の捉え方について
> モトさんと僕とでは違いがあったようです。

 ここでは学問として経済を論じているわけですから、
 捉え方に違いがあるということはどちらかが間違っていることを意味しています。
 私は、次のどちらで喜べば良いのでしょうか?

(a)私の捉え方が正しかったんだ。やったー。
(b)私の捉え方は間違っていたんだ。
  でも、正しい捉え方を教えてもらえたぞ。やったー。

 ちなみに、私の捉え方は根井雅弘氏の『市場主義』の定義に基づいていますが、
 より詳細には以下の『岩波 現代 経済学事典』の定義に基づいています。

*************************************************************************************
【内生的貨幣供給論(theory of endogenous supply of money)】
 貨幣供給は需要によって決まるという貨幣理論。一般的に用いられる貨幣指標のM2+CDの圧倒的大部分は預金である。信用創造の理論は、この預金が貸出しによって創造されることを示している。内生的貨幣供給論は、この理論に基礎をおく。現在、内生的貨幣供給論を強力に主張するのは、ポスト・ケインジアンである。ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論は、さらに水平派(アコモデート派)と構造派に大別される。カルドア、ムーアなどの水平派は、中央銀行は貨幣需要に応じて貨幣供給を受動的に調節すると主張する。他方、需要と供給が相互依存的であると主張するのが構造派である。
(以下略)
*************************************************************************************

 私は、「貨幣には外生性も内生性もある」と述べていますが、
 これは需要と供給が相互依存的であるということです。
 ここらへんの経緯は、どこかで述べます。

 ちなみに、貨幣の供給の内生説と外生説の対立になると、
 貨幣本質論における信用貨幣と商品貨幣の対立などが問題になってくるわけですね。

> 「マネタリーベースを増加させれば
> その乗数倍マネーサプライは増加する」という理論は
> 「貨幣数量説」ではなく「貨幣乗数論」と言います。

 その通りですね。間違えていました。すいません。
 より正確に言えば、
 「中央銀行はハイパワードマネーをつうじて
 マネーサプライを間接的にコントロールできる」というのが「貨幣乗数論」であり、
 「物価水準は、流通貨幣量によって決まるとする考え」が「貨幣数量説」ですね。

> 「貨幣乗数論」という「MB→MSへの波及」...

> 内生派は「貨幣乗数論」そのものを否定しているのではなく、
> 「MB→MSへの波及」を否定しています。

A論というB波及があり、A論は否定しないけどB波及は否定する?
「MB→MSへの波及」を否定したら、「貨幣乗数論」の否定になるのでは?
「貨幣乗数論」という考え方があるのは知っているが、
そこで想定されている効果は無い(0になる)と内生派は考えているということでしょうか?

> 「貨幣乗数論」という「MB→MSへの波及」は、
> 「外生説の根本理論」というよりは内生説と外生説との
> 根本の違いが生じている場所というのが適切ですね。

 なるほど。
 内生説と外生説との集合における部分集合として
 「貨幣乗数論」を論じることができるわけですね。
 ちなみに、私は内生説や外生説とは違う立場から、
 「MB→MSへの波及」を否定するのはまずいと考えています。

(続きます)

徒然

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 今日は、友達と食事。それは楽しいこと。

 そのため、体調不良も、そのときはなんか感じない。

 10月いっぱいはクールビズですが、微妙に寒いときもあるので、長袖のYシャツや下着を購入。あと、必要な家電製品とかいろいろと購入。つまり、買い物をして休みを過ごす。健全だなぁ。

 そんなわけで、健全な休日を過ごしたわけです。

 今日は、中野剛志さんの「保守主義の経済論」の講義を受けてきました。

 微妙に体調不良だったけど、栄養ドリンク飲んで頑張って聞いてきました。

 内容は、10月10日に発売される『保守とは何だろうか』の一部を語ったような感じですね。思想や政治の分野においては、保守思想の考え方はわりかし分かるのですが、経済について保守派がどのような立場に立つかは、あまりはっきりしていなかったということで、そこのところを論じていました。
 あまりネタばれをするとまずいと思うので、一点だけ。
 保守主義者が、市場の自己調整機能に対する懐疑の一つに、金融市場は本質的に不安定であるという考え方があります。これは、当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、実はけっこう盲点だったりするのですよね。ちょっと自分が考えていたことと、重なる部分もあったので参考になりました。

 『保守とは何だろうか』の発売が楽しみです。

 そこでは、私と中野さんの考え方の違いがある程度明らかになるような気がします。まあ、それについては、私以外の人にとっては、心底どうでもよい問題でしょう。

 そして、もう一つ明らかになるような気がします。それは、中野さんと保守思想との距離についてです。ここに、意外と面白い論点があると思うのですよね(ニヤリ)

 

 体調がすぐれないところに飲み会というコンボ。

 きついので、寝ます。明日は明日の予定があるしね。

 斜め前の人が、風邪なのに、途中でマスク取って話まくるからかも・・・。

 さて、出張から無事に帰ってきました。

 仕事がスムーズに進むと気分が良いね。

 さて、議論の不毛さを感じていたりしていたのですが、カズさんから以下のようにコメントをいただきました。

 

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-533.html

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-533.html#comment-95

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-533.html#comment-97

 

> 「貨幣乗数論」という「MB→MSへの波及」は、
> 「外生説の根本理論」というよりは内生説と外生説との
> 根本の違いが生じている場所というのが適切ですね。

 このように、相手側の指摘に対して、意見の変更もじさないというような知的誠実性を見るのは気分が良いですね。

 近い内に返信します。

 さて、お仕事で福岡へ出張してきます。

 休みは、貨幣について論じたり、永井の哲学について考えたりしてました。

 貨幣については、出張から戻ってきてから、もう少し論じるかもしれませんし、論じないかもしれません。

 良く言えば、経済学に対して超学的に論じてみる、悪く言えば、素人の意見を経済学にぶつけてみるとかかな。

 経済学者は、経済学の枠内での恣意的な考え方をしているような気がするので、そこらへんを慎重に論じていくと面白いのではないかと。

 ではでは。

 貨幣について、↓の続きです。

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-532.html

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-533.html

 

 さて、今回は、ストラクチャリズムを基に考えてみます。

 ストラクチャリズムにおいては、「中央銀行は準備供給に対してある程度の量的制約を課すことが可能」であることが認識されています。外生説は、「中央銀行がマネー・サプライを決定することができる」ことですから、準備供給の操作によってマネー・サプライを操作できるかが焦点になります。

 マネーサプライを「現金を含めた総現預金量」だとして考えます。そうすると、マネーサプライは、ハイパワードマネーと貨幣乗数のかけ算で表現できます。ハイパワードマネー(あるいはベースマネー)とは、中央銀行が発行しているお金のことです。貨幣乗数には、「通貨・預金比率」と「預金準備率」が関わってきます。「預金準備率」には、「預金量」と「準備預金」が関わってきますから、銀行が準備預金を供給すれば、貨幣乗数の値を変更することができます。少なくとも、机上の論理では。

 ここで問題としているのは、不確実性が増大するとか、効果が薄いとかいう以前の話です。原理および効果における話であり、有用性の話に踏み込む前の話だということです。
 すなわち、原理的にありえるのかありえないのか、という話と、原理的にありえるなら効果は0なのか0ではないのか、という話です。有用性の観点から優れているとか愚かだとかいう話の段階には進んでいないのです。

 ホリゾンタリズムではなくストラクチャリズムのこういった考え方まで来てしまえば、貨幣供給が内生か、あるいは外生かなどという切り分けは、重要な論点ではなくなってしまうような気がするわけです。もちろん、それでも信用貨幣的な枠組みにおいては、基本的には信用貨幣は内生的に供給されており、その重要な特徴であると主張することは可能かもしれません。ただし、そのような主張をあえて続ける場合、その主張によって何が意図されているのかの説明が必要になるような気がしますが。

 ちなみに、ここで頭に浮かぶのは、石原慎太郎の新銀行東京の件です。政策的に失敗だとか、独占禁止法などの法律問題がどうこうというのは、とりあえず無視して考えてみます。問題は、この銀行による貸し出し拡大は、内生説だけで原理・効果・有用性を含めて論じきれるのかという問題です。有用性については何とかなりそうな気もしますが・・・。

 

 さて、以上の考えは、まだ明確に固まっていないままでざっくりと提示しただけです。議論のどこかに間違いなどがある場合は指摘をお願いします。

 

 さて、貨幣について引き続き考えていきます。

 大雑把に言うと、次の三つがあると思われます。

(1)外生性:貨幣供給→貨幣需要
(2)内生性:貨幣供給←貨幣需要
(3)外生性かつ内生性:貨幣供給←→貨幣需要

 まず、ここでは(2)が成り立つことは自明とし、(1)が成り立つか成り立たないかという視点から考えていくことにします。そこで、ヘリコプター・マネー論について仮説を提示し、その検討を通して外生性の可能性を探っていきます。

【仮説1:ヘリコプター・マネー論による外生性について】

 貨幣の外生説を主張するマネタリストの中には、国民に直接に金を配るヘリコプター・マネー論を主張する人もいるようです。デフレを脱却して緩やかなインフレにしたいという現代日本において、国民一人当たりに云十万を配ればOKという意見もあるようです。
 この意見について、「原理性」・「効果性」・「有用性」の三点から考察してみることにします。
 まず「原理性」についてですが、ヘリコプター・マネー論は原理的に可能です。法律が問題となる場合は、合法的に法律を変えることで実施することができるようになります。「原理性」については、政治や法律の問題だと思われるので、内生説の理論によって実施させないことは不可能だと思われます。
 内生説の考え方からヘリコプター・マネー論を評価すると、「制度的にありえない」とか、「返済や利払いを求めない貸付はありえない」とかいう評価になります。しかし、これは実は批判になっていません。むしろ、内生説の理論からは実施できないが、外生説の理論からは実施できる。そして、原理的に実施できる。それゆえ、外生性は成り立つという論拠になってしまうように思えます。
 次の「効果性」ですが、ヘリコプター・マネー論を実施した際に、その効果が打ち消されて無効化されるか否かを考えてみます。内生説の理論からは、ヘリコプター・マネー論が想定されていませんから、内生説の効果によってヘリコプター・マネー論の効果が無効化されることはないように考えられます。よって、ヘリコプター・マネー論には、何らかの効果がみこまれます。ちなみに、効果が低いということと、効果が無効化されるということの区別は極めて重要ですよ。念のため。
 最後は「有用性」ですが、ヘリコプター・マネー論の効果の検討を通じ、実施すべきか否か、実施するならどの程度の規模ですべきかなどの検討が必要です。ですが、ここでは「有用性」の詳細は重要ではないので割愛します。
 以上のことから、ヘリコプター・マネー論は原理的に実施可能であり、何らかの効果が見込まれます。内生説ではなく外生説から論じることができるため、外生説が成り立つのではないかという疑問が浮かびます。

 さて、「内生説」を主張する方は、上記の論理に穴を指摘できるはずだと思います。間違いが分かる方は指摘をお願いします。

 

 さてさて、次回は、別の仮説から貨幣の外生性を検討していきます。

 さて、貨幣つまりお金は、ポストケインジアンの言う内生説で説明しきれるかどうかを検討していきましょう。具体的には、外生説は完全に排除できるのかということですね。

 根井雅弘氏の『市場主義のたそがれ』によると、「外生説」は〈中央銀行が「マネー・サプライ」を決定することができる〉と説明されています。「内生説」は〈マネー・サプライが貨幣需要(有効需要または所得に依存する)から独立ではなく、需要に対して消極的に調整される〉と説明されています。

 ざっくりと見通すと、「内生説」が有力で、「外生説」が間違っているような気もしますが、そうとは言い切れない要因もあると思うんですよね。

 自分の経験にそくして、二つの違和感を説明してみます。

 一つ目は、外生説の代表格であるマネタリストの貨幣数量説です。
 貨幣数量説とは、「社会に流通している貨幣の総量とその流通速度が物価の水準を決定しているという理論。流通速度が一定の場合、貨幣の過剰発行によりインフレーションが生じると主張する」という考え方です。この考え方は、厳密には間違っているとは思います。しかし、完全に間違っているわけではないのではないか? いや、完全に間違っているとは、どういう状態なのか? という疑問が浮かんだわけです。貨幣の総量は、社会に何らかの影響を及ぼすのではないか? と思ったわけです。

 二つ目は、2009年の定額給付金です。この制度でお金を手にすることで、何らかの需要が生まれたのではないか? という疑問です。この制度でお金を手にしたことから、いつもは買わないはずの何かを買ったという人は多いのではないでしょうか? この経験から、マネタリストの「ヘリコプター・マネー論」には、何らかの効果があるのではないかと考えてしまうのです。
 誤解のないように言っておきますが、私はマネタリストには否定的です。「ヘリコプター・マネー論」についても否定的ですが、「内生説」によって理論的には否定できないのではないか? そもそも、「ヘリコプター・マネー論」は原理的には可能なのではないか? 民主政体では、世論の支持次第で「ヘリコプター・マネー論」的な政策が実施されることはありえるのではないか? そのような政策は、社会に何らかの影響を及ぼすのではないか? といった疑問が浮かぶわけです。

 ゆたろ君が紹介してくれた↓でも、「ヘリコプター・マネー論」が批判されています。


http://antimainstreameconomics.blogspot.jp/2013/01/blog-post_9981.html

 

 しかし、ここでの批判は、なぜ論理的にダメなのかという批判ではなくて、馬鹿にするという批判のように読めるわけです。「内生説」において展開されたように、ストラクチャリストによるホリゾンタリストへの論理的な批判とは違うと思うのです。
 論理的な批判なら受け入れますが、馬鹿にするという批判の仕方については、私は与することができません。歴史に学ぶなら、ケインズの『若き日の信条』でしょうね。

 さて、ここまではざっくりとした違和感の紹介でした。次回は、もうちょっと論理的につめていきます。

 前回の↓の記事に続いて。

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/nikki/2013/09/post-530.html

  コメント蘭までご覧下さい。

 専門的になっていて、本HPを見ている方をおきざりにして不毛かと思っていんたんですが、ゆたろ君が色々と教えてくれたので楽しくなってきました。

 見てくれる方をおきざりにして突き進みます(笑)

 あと、文字化けしているのは、本HPの機能がへぼいからです。申し訳ありません。

 以下のゆたろ君のブログも参照のこと。

http://ameblo.jp/yutaro0415/

 なるほどね。

> ただこれは、あくまでも「準備供給」に関して外生的、
> 公衆の資金需要とは無関係に行えるというだけであり、
> 問題となっている「貨幣供給」についてではありません。

 この指摘はその通り。信用貨幣的な枠組みで、基本的には信用貨幣は内生的に供給されており、その重要な特徴であることは当然だと思います。

 気になっているのは、基本的ではない例外的な状況がありえるのではないかという点と、外生説がわからの意見に対し、内生説が満足な答えを提示できない場合があるのではないかという点です。

 なんか、ゆたろ君に論破されそうな気もしますが、そうなったらちゃんと意見を訂正します。

 ただ、まだ現状では腑に落ちているわけではないので、もう少し議論を続けたいと思います。

 別に外生説に愛着などはないので、単に納得できる地点に行きたいだけなんですね。

 

 正直、分かる人も少ないでしょうし、
 かなり不毛なのでやる気もでないのですが、
 以下のようなコメントももらったので一応論じておきます。

 

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/book/2013/09/post-74.html#comment-79

 

 まあ、経済学的に言えば、
 ストラクチャリストによるホリゾンタリストの批判はかなり妥当だということ。

 ちなみにホリゾンタリストは、カルドアやムーア。
 ストラクチャリストは、ダウ=ダウやパリーやポーリンやレイなど。

 カルドアなどのホリゾンタリズムのモデルを形式的に考慮するなら、
 貨幣を内生変数としているため、
 利子率は中央銀行が外生的に決定することになり、
 流動性選好説の否定になっている。
 この時点で突っ込みどころ満載。

 ケインズの考え方を参考にしても、
 生産が完全雇用以下の水準で停止する理由は貨幣の非中立的な作用であり、
 有効需要の原理と流動性選好説は不可分の関係にある。
 よって、内生的貨幣供給に訴えて利子率を外生化するアプローチは、
 色んな意味でおかしい。

 ホリゾンタリストの理論では、
 中央銀行が最後の貸し手として行動する結果、
 貨幣需要の如何なる変化に対しても貨幣供給は順応するという想定がなされている。
 そんなバカな!

 貨幣供給が完全に内生的であれば、
 貨幣需要の増加は必ずfull accommodateされるのであり、
 貨幣の流通速度は一定不変になる。
 えっ?

 ダウなどのストラクチャリストは、
 中央銀行は準備供給に対してある程度の量的制約を課すことが可能であり、
 外生的な側面は存在することを主張している。

 中央銀行が外生的に短期利子率を変更する一定の裁量範囲をもっていることは事実だが、
 中央銀行はつねに準備需要増大をすべて充足するとはかぎらない。
 そりゃそうだ。

 ストラクチャリストであるレイは、ホリゾンタリストの理論について、
 順応的でない中央銀行が存在するどんな経済にも適用不能であると批判している。
 また、レイは貨幣供給関数は民間の借り手・貸し手・中央銀行の行動の複雑な相互作用であり、
 中央銀行は貨幣的政策を実行するために量と価格の制約の組み合わせを用いることを指摘。
 もっともだ。

 ホリゾンタリストの理論では、
 信用市場の均衡がつねに達成され、
 信用割当は起こらないと想定されているのに等しい。
 だが、借手の信用状態などに関する情報が不完全な場合、
 銀行が価格割当よりもむしろ数量割当を行うことはきわめて合理的。
 信用割当は金融市場において頻繁に生じる現象。
 これは銀行が価格設定者であるとともに、数量設定者でもあることを意味している。

 ちなみに私はストラクチャリズムには参照すべき論点があると考えているが、
 ストラクチャリストではない。
 私は、非ストラクチャリストであり、反ホリゾンタリストです。

 あと、この議論はかなり不毛なのでもういいやと思っている・・・。


 

 さて、世の中は3連休ですが、仕事のために2連休になったんで、むしゃくしゃしてヤケ酒ならぬヤケ本をしました。

 ヤケ本とは何でしょう・・・?

 そうです。本をいっぱい買って、メチャクチャに読むことです。

 根井先生の本をいくつかとか、永井均の本とかを買って、食事とか睡眠とか割と考えずに読みまくり、ひっかかる箇所に線を引き、それらをタイピングして電子データ化し、自分なりにまとめるのです。

 何とか根井先生の本を4冊読んで感想書くところまでは行きましたが、永井の本の感想はまだ先だなぁ。

 しかし、これだけ急ピッチにやると、かなり無茶苦茶になることが判明した。そりゃそうか・・・。

 推敲したつもりが、ページの表示が脱けていたり、コピペが間違っていたり、日本語になっていなかったり・・・。アップしたの確認して、改めて読んで変なところを修正したり、いっそ削除して後で修正してからアップし直そうかとか考えたり。でも、それもめんどくさいので、このままでもいっかと思ったり・・・。

 まあ、こんなやり方はあまり良くないですなぁ・・・。

 むちゃくちゃして割とすっきりしたので、今日は寝て、読書以外に時間を使おう。そして、仕事も頑張るか。

 最近は、読書で情報収集が比較的多い。
 読むだけなら簡単だけれど、そこから注目ポイントを抽出し、それについて自分なりの意見を構成するのはけっこう大変。

 経済系で言うと、京都大学の根井先生の経済本は読みやすい。いくつかまとめて買って、読んでみた。哲学では、永井均の『哲学の賑やかな呟き』が出てたので読んでみた。

 四時間くらいぶっとおしで読んでいると、さすがに頭に入ってこなくなる。

 そんなときは、ジャンルを変えたりすると、頭に入ってきたりする。

 経済系の本に疲れたら、哲学的な本を読むとかね。

 ジャンルを変えても頭に入ってこないときは、寝るにかぎるね。

 さて、昨日は「戯れ言」と題した随筆を書きました。

 我ながらなかなかの出来だと思います(苦笑)。この文章は思想的ですが、これを基にして、さらに哲学的に考えてみようと思います。

 まず、公共性が私欲に基づいている可能性について。

 日本と言えば「無私」の思想と言われたりしますが、この考え方はあんまり正しくないと思います。日本の思想史上で、実際に「無私」の価値を説いた人って、あんまり多くないはずなんですよ。

 もし、無私を説いた有名どころの人物を知っていたら、私に教えてください。小林秀雄みたいに無私の価値を説いておきながら、あんまり無私に振る舞えていない人がいたりして面白いですけどね・・・。

 で、何が言いたいかというと、無私が公共性に必ずしもつながらないということです。それどころか、私欲が公共性につながるということもあるのです。

 ちなみに、アダム・スミスの「見えざる手」とは別の意味です。

 つまり、私欲に満ちた行動が意図せずに社会のためになるということを言いたいのではないのです。ここで言いたいことは、公共性を主張することが、私的な快楽だからそうしている人がいるということです。

 はっきり言ってしまうと、公共性を武器にして自分の満足感を得るという行為が、割とありふれて存在しうるということです。

 そして、それは、論破されることによって公共性と私欲の対立へと分裂するという、端的な現象を明らかにしているだけです。

 その結果は如何?

 私のたいしたことのない人生経験から言わせていただければ、そこで公共性に比重を傾けられる人というのは、極めて少ないというのが本当のところです。

 さらに、もう少し余計なことを付け加えれば、論破までいかなくとも、その人の議論の進め方を見れば、けっこう分かっちゃったりするのですよね。その人が、実はどっちなのかって。まあ、これは蛇足です。

 

 さらに、別の観点から哲学的な議題を持ち出してみましょう。

 仮に、「仮に」他人を非難することが大好きで公共的なものにまったく価値を見出していない人がいるとします。さらに、その人はとてつもなく頭が良かったとします。

 そのような仮定を置いた場合、その人は、生前も死後も、聖人として評価される可能性があるということです。

 分かるでしょうか?

 分からない人は、少し考えてみるも良し、別のことに興味を移すことも良し、です。

 他者を批判するときには、その根底にはしっかりとした理論がなければなりません。

 しかも、その理論を自分がしっかりと納得していなければなりません。

 これらの当たり前の礼儀を欠いている者は、他者を批判した咎により、いずれ自身が批判されることになる可能性が高まります。

 これは一見して当たり前のように思われますが、この視点を喪失しているように見える方々もけっこういるように思われます。

 世の中に存在する、ある側面からの一つの真理を述べておきましょう。

 他者批判とは、一種の快楽なのです。

 そこには、社会のためだとか、公共性とかいった綺麗な言葉を隠れ蓑にした、とても嫌らしい感情が蠢いていたりするのです。

 しかも厄介なことに、それを本人が自覚していない場合も多いのです。

 社会とか公共性とかいった言葉に隠された本心が本物か偽物かの判断は、議論によってあぶり出すことが可能です。

 すなわち、その者の他者批判の論理的欠点を指摘するのです。

 そのとき、その者がどのような態度を取るかで、その者の本心があぶり出されるのです。

 自分は悪くないという態度を伴う、ひどいダブルスタンダードを見ることができるかもしれません。

 俗に言う、他人に厳しく自分に甘いという態度です。

 知的誠実性を伴わぬ、そのような態度を見ることは、あまり気持ちの良いものではありませんね。

 私は、私がそのような者ではない、などと言うことはしません。

 ただ、このような可能性には自覚的ではあろうと心掛けているつもりはあります。

 最近は、エコノミクスとしての経済学関連の本をいくつか読んでいたりします。

 いや~、高校の頃に、経済学部も視野に入れていましたが、経済学部に入らずに理工学部を選んで正解でしたわ(笑)

 これ、大学生が一生懸命勉強するわけでしょ?

 色んな意味できついっすわ。

 ある程度の思想的な土台ができてから学ぶなら、おかしなところとかも見えてくるだろうけど、大学生くらいでこれを頭に詰め込むのって、かなり良くないよなぁ・・・。

 でも、それを言ったら、西洋近代思想や西洋近代政治学も似たようなものだけどね・・・。

 西洋近代って、かなりおかしな考え方が多いから気をつけよう。

 で、経済学だけど、学派って本当に不毛だなぁ・・・。

 なんとなくは分かるけどね・・・。特に経済で飯を食っていくと、学派とかに縛られるのかなぁ・・・。

 まあ、私は経済学の学派や派閥とは無縁なので、学派には縛られずに経済学について考えていきます。

徒然

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 月曜は、台風の影響で移動が大変でした。

 普段でも5時間かかるところが、8時間かかってしまいました。

 そのおかげで読書が進みました(笑)

 大分涼しくなってきましたね。

 やっぱり、8月は暑すぎでしたね。

 あと、一時的に本ホームページが見られなくなる現象が発生しましたが、サーバーの更新を忘れていたのでした(笑)

徒然

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 微妙に体調不良。

 でも、出張。新幹線は動いているのかな?

徒然

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 今日は出かけようと思っていたけど、雨なので止めて家で読書です。

 かなり高速で読んだので、頭が痛くなってきた・・・。

 本日は、シュンペーターと戦っていました(笑)

 天才が間違えるとき、そこに何を見たのか?

 なんてね。

 googleとかyahooとかで検索すると、ちゃんと本HPが出てきます。しかも、アクセス数が多いページから六つほど表示されるようになっていますね。うれしいですね。
 最初は、「日本式」っていうホームページ名だったのですが、「日本式」で検索しても、いっこうにたどりつけなかったんですよね(笑)
 それで、ホームページ名を「日本式」から「日本式論」に変更したという経緯があるのですよ。それが今では、「日本式」で検索をかけても、本ホームページ「日本式論」にたどりつけるようになっていますね。やったね。
 検索結果を見ると、アクセスの多いページが何となく分かりますね。
 日本式シリーズで言うと、一位『日本式 正道論』、二位『日本式 経済論』、三位『日本式 言葉論』、四位『日本式 自由論』といった感じですね。2位と3位は入れ替わったりしますね。『日本式 正道論』は私の主著なので、これが一番人気で嬉しいです。
 個別の論文で見ると、以下の論文などが人気あるようです。

・ 『日本式 正道論』内の『政道』
・ 『日本式 言葉論』内の『心』
・ 『日本式 経済論』内の『荻生徂徠』
・ 『政治制度論』内の『日本の政治』
・ 『保守主義への挑戦状』内の『保守の思想』
『哲学ごっこ』内の『思想哲学論考』

 なるほどね~。けっこう納得の顔ぶれですな。
 疑問なのは、『荻生徂徠』ですな。多分ですけど、講談社学術文庫で荻生徂徠の『政談』が出たのと関係があるのかもしれないですね。
 『思想哲学論考』については、細かいところまで練っていきたいけど、時間がかかるのでもう少し先かなぁ。
 色々と書きたいものが多いのですが、今後も頑張っていきます。

徒然

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 今更ですが、中野剛志さんの『反官反民』を読んでいます。

 色々と素晴らしい文言があるのですが、次の意見なんか、絶妙ですねぇ。

 

 論理的表現を産み出すことの苦労を知らない者だけが、論理的な文章を非感情的と読み間違えるのである。

 

 いいこというなぁ。

 本書は、中野さんの論理が光っていますが、いくつか納得できない点もあるので、どこかで意見の相違を論じてみたいと思います。

 こういう風に、論理的な相違を明らかにし、それを公開し、議論を進めたいと思うような本って、たとえどれだけ批判的に分析することになっても、それだけで良書なのだと思います。

 批判するということについて、ちょっと考えてみます。
 例えば「本の感想」なんかで、私は他人の書いた本について批判したりしているわけです。その批判の結果は、賞賛の場合もありますし、非難の場合もあるわけです。
 ですが、たとえ非難する場合でも、批判の対象に取り上げる本というのは、実はそれだけで一定のレベルには達しているのですよね。
 例えば、言葉の意味を一般的なレベルで使用しているとか、意見を反証可能なレベルで示しているとかですね。私は海外の文献については翻訳でしか読めませんが、一定の水準に達しているものは出来の悪い日本人の本よりも読みやすかったりします。言葉の意味や、文章の構成や、意見の論理構成などは、かなりの程度で人類にとって普遍的だと思われるのです。そもそも意見の対立が成り立つには、意味における暗黙の同意が必要ですからね。この隠された意味の次元について考えると、わくわくしてきますね。
 えっ? そうでもない? 俺だけか?
 まあ、意味における暗黙の同意があるため、古今東西の様々な本を読むことで、その著者と仮想的に議論することができるわけです。それって、けっこう素敵なことだと思うのです。

 で、批判する場合についてなのですが、学問的か政治的かでかなり方向性が異なってくると思われるのです。特に民主政体の場合はですね。
 民主政体の場合、政治には多数派工作が不可欠です。政治的な目的を達成するために、同じ党派内での批判を防ぎ、対立する党派への批判を効果的に行うことが戦略として選ばれたりします。民主政体では、自身の属する党派が、国家などの共同体において最大多数を取ることが重要視されるわけです。
 ただ、学問も、現在の日本の大学などでは、かなり党派性が強いように思われます。学問の政治化とでも言えばよいでしょうか? 学派が形成されているような気がするのですよね。その教授の下についたら、その教授を批判するような言説はできないとかですね。何か嫌ですね。現代の経済学なんか、特に党派性が強いような気がしますね。
 ですが、本来の学問(学んで問うということ)の立場においては、議論の上で何がより正しいかを追求していくべきだと思うのです。そのとき、批判対象は、自分の意見と大幅に異なった意見よりも、自分の意見に近いけどちょっとだけ違う意見の方が都合良かったりする場合が多々あるのです。
 微妙な違いを明らかにし、批判し合うことで議論を展開し、何がより正しいかを追求することができるようになるのです。思想や哲学という分野では、こういった営みが非常に重要になってくるのです。
 ここで注意が必要なのは、学問と政治では方向性が違うために妥協が必要だ、などというのは愚論だということです。政治には演説などが必要になってきますが、演説ではある種の単純化が行われます。しかし、その単純化を行うためにも、その背景には厳密な学問的成果がなければならないのです。良く理解しているからこそ、かみ砕いて話すことができるのです。
 ですから、高度な政治においては、党派内において活発な議論が展開されていることが必要なのです。同じ党派内での批判を防ぐというのは、下策なのです。上策は、もちろん、活発に議論して意見をより正しい方向へと導くことです。
 ただし、これは決定的に難しいことです。議論をするということは、自分が論破されるということも覚悟しなければなりません。すなわち、自分の自尊心が傷つけられる可能性があるわけです。そのため、「綿密な議論の上で意見を広める」という学問と政治の見事な調和は、桁違いの難易度になってしまうのです。
 このレベルは、ほとんど人間には不可能なレベルの話なのかもしれません。それでも、それを志向することは大事なことだと思います。この志向において、 あなた の人格が問われるのです。
 すなわち、単に反対派を打倒することに快楽を見いだすのか、より正しい意見を求めることに意義を見いだすのか、という決定的な違いがあらわになってしまうのです。
 実に、恐ろしいですね。


※ たとえ自分が間違っているという事実を突きつけられようとも、それが、より正しい何かに近づくためなら構わない。このように思っている人は、もしかしたら『日本式論』が役に立つかもしれませんし、役に立たないかもしれません。

※ たとえ正しい意見だとしても、自分が間違っていると指摘されるのは嫌だという人は、『日本式論』を精神衛生上の理由から見ないことをお勧めしておきます。

※ もちろん、私の意見に間違いがあれば指摘してください。喜んで修正します。当然ながら、その指摘に最低限の礼儀が守られていることが必要ですが。

 出張から帰ってきたら、御堂筋線で煙が出てるとかで、電車が止まった。

 1時間以上も待ちぼうけ。

 仕事で疲れてたので、さらに疲労が・・・。

 休みでも取ろうかしら・・・。

 保守派と呼ばれる人たちは割りとたくさんいますが、皆さんそれぞれに個性的ですよね。保守思想について、ちょっとだけ、その先を考えてみたりしました。
 例えば、西部邁さんなら、保守思想→実存思想という思考の流れが見えるような気がします。『実存と保守』という本も出していますし。
 佐伯啓思さんなら、保守思想→日本思想という思考の流れがあるように思えます。特に、京都学派とか西田哲学とかについても論じていますしね。
 中野剛志さんでいうと、保守思想→プラグマティズムという可能性に言及しているように思えます。
 中野剛志さん、三橋貴明さん、柴山桂太さん、施光恒さんの4名に対しては、『反動世代』(コメント)という本が出ていますね。「保守世代」ではなく、「反動世代」なのが意味深ですね。
 ここらへんの、「保守思想の先にある何か」について、私は興味を惹かれているのですよね。そこには、何らかの可能性があるはずだと思うからです。
 まあ、私が勝手に思っているだけかもしれませんけどね。

 2020年オリンピック・パラリンピック開催都市が東京に決定しましたね!

 やったね、日本。

 おめでとう、日本。

 「USJ ユニバーサル・スタジオ・ジャパン ユニバーサル・サプライズ・ハロウィーン2013」のCMがやっていました。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=vRwfWJAI7U8

 

 「夜はゾンビの数が3倍 本当に3倍!」

 「だから絶叫無限大!」

 

 いや、その計算はおかしい・・・。

 本ホームページ『日本式論』は、政治的な目的はほとんどありません。つまり、現代日本で多数派工作をして、世論を作り出すといったようなことは考えていません。
 それよりも、自身の考えを学問的に厳密に練っていきたいという欲求が強いですね。

 もちろん私も大人ですから、何事も厳密性を追及することが弊害を生むことは理解しています。妥協すべきことがあるのも理解していますし、日常生活ではそこらへんは使い分けています。私は思想や哲学とは違った分野で、日々の糧を得て生活しているわけですし。
 つまり、きちんと生活する資金を確保した上で、自分が本当にやりたいことを妥協せずにやっているというだけの話です。

 で、自分の考えを深めるためには、他者の意見を参考にすることが有効な方法です。そのため私は、出版されている本を読んで、そこで示されている意見に賛成したり反対したりしているわけです。
 そのときに批判する本というのは、実は、批判する価値がある本なのですよね。世の中にはたくさんの本がありますし、それらの意見は千差万別です。ですから、自分の意見を深めるために、批判するに値する本を選定するという作業が必要になるわけです。
 具体的には、次のようなことですね。

・ 用語が一般的な定義に基づいて使用されており、かつ、必要に応じて言葉の定義が示されている。
・ 単なる感情の羅列ではなく、論理的に文章が構成されている。
・ 著者の意見が、反証可能性を有している形で示されている。

 最低限、上記の条件がないと批判しようとも思いませんからね。
 ただし、上記の条件に合わない場合でも、特殊な場合は批判に乗り出さざるを得ませんけどね。例えば、他人の名誉に関わるときとかですね。そういったときは、不毛な結果にしかならないので正直やる気も出ないのですがね。

 で、何が言いたいかというと、『日本式論』に示されている論理に対し、納得できない場合は遠慮なく(コメントなりメールなりで)言ってくださいということです。
 ただしその場合は、上記の条件に合うように反論してほしいわけです。そうしないと、議論が成立しないからです。

 例えば、私の意見に同意していただける場合、当然ながら私は嬉しいわけですが、議論としては続きませんよね。同意します。ありがとうございます。で、終わってしまいますからね。それでも十分と言えば十分だと思いますけど。

 また、明確な理由はないけど、『日本式論』で示されている意見は気に食わないという人もいるでしょう。そういった人は、『日本式論』を見なければ良いだけだと思います。人生の時間は有限なのですから、もっと有意義なことに時間を使うべきだと思います。あと、私の意見に対し私の知らない場所で否定的なことを言う人もいるようですが、単純に時間の無駄だと思います。『日本式論』なんて見る価値ないよって、他の人に言うのは全然OKだと思いますけどね。

 また、管理人モトの意見について、ここまでは分かるけど、ここからは理解できないとか、ここからは反対の立場だとか言ってくれる方は大歓迎です。こういった場合、私の方からも意見を出して、議論が進んで、何らかの意味での正しさに近づく可能性が生まれるからです。そのためには、相手側の人に、議論の条件を守っていただく必要があるわけです。

 などなど、ちょっと議論について考えてみました。
 最近は、メールなどで意見をくれる方も増えているので、建設的な議論を展開するために、ちょっとだけ私の見解を述べてみたまでです。実際、メールなどを通じて、有益な情報をいただいたり、建設的な議論ができてきたりしているので、今後ともその流れを作っていきたいなと思っているわけです。

 議論って、けっこう難しいですよね。
 議論をする場合って、自分以外の他者を必要としますから、議論の目的を何かしら設定しておかないと不毛になってしまうことが多いのです。
 そのため、議論の目的をあらかじめ明示しておくことは、議論を円滑に進めるための一つの方法だと思います。目的が違うと、議論がかみ合わなくなったりしますからね。

 で、ネット上でホームページやブログやツイッターやフェイスブックをやったりできるわけですが、そのような行為によってネット上での対話や議論などが発生したりするわけです。
 で、そのネットで公開している内容の性質によって、考慮しなければならないことも多々あるように思うわけです。
 例えば分かりやすい例で、自分が正しいと思っている意見を表明している場合で考えてみます。ざっくりと、次の二つの理由はすぐに挙げられると思います。

(1) 学問的に、自分の意見が正しいか「他者の意見によって」検討するため。
(2) 政治的に、自分の意見を「他者へと」広めたいため。

 この二つの理由の場合、かなり性質が違いますよね。違いは色々な面から指摘できますが、ここでは同意できる人数について考えてみます。
 学問的な厳密性を追及すると、それに付いて来られる人の数って、減っていってしまいますよね。例えば数学の証明などが顕著ですが、厳密に学問的に高度になるほど、それを理解できる人は少なくなるわけです。そして、学問的にはそれでもある程度は良いわけです。
 しかし、政治ではそれではまずいわけです。政治的な主張を厳密にしていくと、ついて来られる人が減ってしまって、政策に反映できなくなってしまうわけです。少なくとも、民主政体や民主的要素を含む政治体制では。
 ですから政治の分野では、政治的主張にしても、ある程度は学問的厳密性を犠牲にせざるを得なかったりするわけです。多数派を獲得できるようにするために、自身の主張を単純化したり拡張したりするわけですな。政治家って、本当に大変ですね。
 ただし、政治的に学問的な成果を利用するような場合、仮に学問的厳密性がある程度犠牲になるとしても、もともとの学問的厳密性が練られていることって非常に重要だと思うのですよね。

(続く)

 今日は、仕事をしていたら、大阪府が南海トラフ巨大地震を想定した「大阪880万人訓練」の緊急速報メールが届きました。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/130904/20130904023.html

 かなりメルヘンな音が鳴り響き、あんまり緊急という感じがしなかったです。
 でも、取り組みとしては良いことなので、引き続きいろいろとやってほしいです。

 なんか、俺のところには来た、わたしのところには来てないとか、良い大人たちが変な感じで盛り上がった。
 プライベートと仕事でスマホ2台持ちで、それぞれに2回来たので、計4回メルヘンな音楽が鳴り響いたのじゃよ。

 また、帰りに駅から出ると、なぜか非常食を配っている人たちがいるので、ただでもらってきた。多分、地方自治体の何かだと思うけど。

 もらったのは、水やお湯をそそぐとできあがる「尾西のわかめごはん」と、「大阪広域水道企業団 高度浄水処理水 めっちゃおいしいやん! おおさかの水」490mlです。名前が長いよ(汗)

 こういった取り組みは素晴らしいと思います。大阪、頑張れ!

 大阪に来て、まだ半年に満たないけど、大阪は良いところだ。

 多分、日本ならどこに行ってもそう言うけど。

 九州から帰ってきました。

 8月30日に大阪から長崎へと向かい、9月4日に長崎から大阪へと帰ってきました。

 そうです。

 台風へと立ち向かい、台風を追って戻ってきたのです。

 なんという勇気でしょう(棒読み)

 新幹線は、到着が大幅に遅れ、動き出しても徐行で遅く、途中で止まったり、意図せぬ乗り継ぎが発生したり、色々と大変でした。

 まあ、こんなときもあるよ。

 これはこれで、貴重な経験だと思って、人生を続けていくのです。

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