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2015年1月アーカイブ

 小浜氏の「倫理の起源53」について、前回の(1)の続きです。

 私の質問に対し、小浜氏が返信してくれましたのでご紹介いたします。


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コメント、ありがとうございます。

ご質問にお答えします。

ことは、愛国心教育の有効性いかんをめぐっていますね。
まず、この議論に踏み込む前に、私がこの記事の文章で、次の2点を論じていることをご確認ください。

①近代国家の複雑な構成は、素朴な愛郷心や日本が好きだという感情のようなものとなかなか順接ではつながらないこと。

②国家秩序が平穏に保たれていればいるほど、一般民衆の日ごろの生活意識の中に、「国を思う」といった感情は浮上しにくいこと。

さて愛国心教育の涵養を訴える多くの人たちは、①の難しさに思い及ばず、「故郷の山河」への思いや、昔の日本人にはこんなに偉い人がいたという情報や、日本が好きだという感情があれば、それを出発点としてだんだん積み上げていくことによって、国家としての日本の将来を本気で(冷静に)心配する意志や行動力が具体的・持続的に身につくかのように考えています。民衆というものの長年の観察からして、私はそのようには思えません。それは残念ながら②のようなあり方が実態だからです。

木下さんは、おそらく愛国心という言葉を、理性的な公共心という意味で使っていらっしゃると思うので、その点で共通了解が得られれば、私も愛国心教育の有効性を認めるにやぶさかではありません。しかしそれにしても、「教育」というのはとても長くかかり、方法も確定しがたく、しかもその結果の検証が困難であるという難点はどうしても残ります。

私はそういうおぼつかないものに過度な期待を寄せるよりも、たとえば日本の外に出ていってみて初めて日本の素晴らしさがわかったとか、私生活に直接影響を及ぼすことがわかる形で内外の危機が意識されるような異変があったとかいった経験的な契機のほうが有効だと思います。現に前者は最近じつによく耳にしますし、民主党政治の体たらくや、中国の尖閣諸島への侵略圧力や大震災などによって、眠っていた国民意識が一気に高まった、などは後者の例です。

さて、肝心のご質問内容についてですが、以下の私の記述は、たしかにやや舌足らずであったかもしれません。補足します。

≪ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである。≫

この場合の「自分たちの生活の安寧」という言葉ですが、この「自分たち」という言葉には、特定の個人・団体ではなく、日本国民全体という意味を込めているつもりでした。ルソーの言う「一般意志」に近いものがあります。したがって、そこには、あらかじめ「多少とも公共精神を尊重する人たち」という条件が織り込まれています。

この条件が織り込まれていれば、自分の税金が自分の私的利益に直接は還元されない形で(例えば過疎地への公共事業のような形で)使われても、それが日本国民全体の安寧に寄与するなら進んで承認するということになります。そうして、もしそういう承認の態度が、巡り巡って、結局はこの日本で生きていく自分にとってもよいことなのだと(最大多数の)国民に理解されれば、よい統治が実現したことになります。これは理性的な国家的人倫のあり方を説明するものであって、普通解釈されているような「愛国心」という感情的ニュァンスの濃厚な言葉によっては、うまく説明できないことだと思います。

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 いかがでしょうか?

 私は、正直なところ、かなり違和感を覚えました。

 ここで新たな論理が示されましたので、それに対し、何らかの回答をします。

 

 ただ、少なくともここにはまともな議論が展開されているとは言えると思います。

 その議論を通じて、意見が収束すれば素晴らしいですし、収束しなかったとしても、それぞれの考え方の違いが明確化され、見ている観客に利する何かが生まれるのではないかと期待したいところです。


 ASREADに、『家族と国家のおはなし』という記事を投稿しました。

 単独で楽しめるようにしていますが、【倫理観の相克と融合 ―小浜逸郎氏の記事に応える―】の続編だと言うこともできます。

 難産したというか、けっこう時間をかけて書いてみました。

 早ければ来週中には掲載されると思います。

 この記事は、とくに掲載を急ぐタイプの記事ではないので、掲載時期は気長にお待ちください。


  【小浜逸郎・ことばの闘い】の「倫理の起源53」(2014年11月25日掲載)について少々。

 この論文では、愛国心について考察されております。

 愛国心についての考え方において、私と小浜氏では見解が異なるように感じられます。

 以下、違和感を覚えた箇所です。

 

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 一般に国民生活における欲望や関心は極めて複雑多様である。その錯綜した状態をまとめ上げ、必要に応じて一つの結束をもたらすために必要なのは、ひとりひとりの心に愛国心を植え付けることであるよりも、ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである
「愛国心」の必要を訴える感情的保守派は、しばしば身近な者たちや郷里への愛からそのまま地続きで、国家のようなより超越的なレベルの共同性への愛につながっていくことが可能であるかのような論理を用いる。しかし残念ながらこれは欺瞞的なお題目というほかない。というのも、じっさいにそうしたつながりを保障する具体的なステップがそろっており、小から大に至る経路が明らかにされていないかぎり、そうした主張は、単なる党派的な幻想による感情の強要に終わるほかないからである。
 国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つ。この機能的かつ合理的な統合性は、「愛国心」のような感情的なものに依存することによって保証されるのではない(それはしばしば実存や個体生命と矛盾するために道を誤らせることがある)。身近な者たちへの愛が損なわれることのないような社会のかたち(秩序)をいかに練り上げるかという理性的な「工夫」によって保証されるのである。その工夫のあり方のうちにこそ、国家の人倫性があらわれる。いささかレトリカルに言えば、国民が国家を愛することが要求されるのではなく、国民を愛しうるような国家を存立させることが要求されるのである。

 

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 違和感に対し、次のようにコメントで質問しています。 

 

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「倫理の起源53」を読ませていただきました。

私は小浜さんとは、異なる見解になります。特に、〈ひとりひとりの心に愛国心を植え付けることであるよりも、ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである。〉という箇所についてです。

私は、愛国心を植え付けるような教育は、ある程度は必要だと考えます。ちなみに私自身は、愛国心はそれほど強くはないですが、それほど弱くもない人間です。

私と小浜さんの見解の相違は、おそらく前提となる世界観の違いに由来するのだと思われます。相違を明確にする意味でも、一つ質問させてください。

小浜さんのようなやり方ですと、自分たちに都合の良い公共事業は賛成しますが、自分たちに利益のない公共事業には反対するような人間が出来上がるような気がします。そのような人間たちが集まった社会が理想だということでしょうか?

ちなみに私は少しだけ愛国心があるので、私にとってはメリットがない(そして税収などでデメリットが発生したとしても)辺境の地域への公共事業に(程度問題ではありますが)賛成します。 

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 何らかの返信をいただけるようでしたら、「倫理の起源53」のコメント欄に書きますし、反応がないようでしたら、本サイト上でのみ論じていくつもりです。

 また、あまり質問しすぎるのも迷惑になると思いますので、今回の件がひと段落した後は、自重するつもりです。 

 

 ある方から、メールでサイト見てると報告をもらいました。

 そういった報告を受けると嬉しいですね。

 あと、質問で大学生時代にどのような本を読んでいるか訊かれました。

 メールには返信しましたが、一応ブログでも答えておきましょう。

 今日のネタを考えるのがめんどくさいからとか言っちゃダメです(笑)。


 私のお勧めする本については、「本推薦」にまとめています。


 特に大学時代に限定してということでしたら、やはり国内外を問わず、

 保守主義に関係したものを多く読みましたね。

 西部邁さんや佐伯啓思さんの本は、かたっぱしから読みましたね。


 また、メルアド登録が必要なので無理に勧めはしませんが、

 ここから、私が話しているラジオを聴くことができます。

 特に、『第六回 「本の読み方」について』が今回の質問に関係あるかと。

 私としては全面公開を希望したのですが、

 編集部の意向でメルマガ登録しないと第五回以外は聞けないようです。


 まあ、ただなので、気楽に登録して聞いてみてください。


 前回前々回の続きです。


 eeggeさんが、【倫理観の相克と融合 ―小浜逸郎氏の記事に応える―】のコメントに返信してくれました。


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eegge 
2015年 1月 23日
返信
 引用
 .

よくわかりました、丁寧な応答有り難うございました。これで、私は、このスレッドにおける貴方の言説に、丸ごと賛同することができます。

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 返信、ありがとうございます。


 こういった応答ができるって、貴重ですよね。

 私は大多数に嫌われても、こういった方にきちんと評価してもらう方がずっと好きなのです。

 分かってくれる方に分かってもらえれば、それで十分ではないでしょうか?


 (1)(2)(3)(4)(5)の続きです。


 小浜氏のサイトの文章「倫理の起源58」をたたき台にし、コメントを通じて議論を展開してきました。議論を深めるためには、議論可能な相手が必要です。

 本件については、私なりにさらに色々と語ることができますが、議論そのものが成り立つのはおそらくここまででしょう。そして、議論できるところまで到達したことで、論者(私と小浜氏)の意見の相違が明らかになったと思われます。

 今までの議論を振り返ることで、同意に達したところと、意見が分かれたままのところが、観客にも明らかになったのではないでしょうか。その差異は、論者の前提の違いに由来します。その違いをさらに明確にするために、最後に一つだけ論じておきます。

 たたき台になった文章の最後のほうで、小浜氏は次のように書いています。


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 このくだりは、こうして対談後に整理された冷静な文章でさえ、読んでいて涙を禁じえないが、この部分を取り上げたのは、ここでの林氏の話そのものが私を感動させたからというだけではないのである。
 私はまさに対談者として林氏の眼前にいた。このくだりを語るとき、彼は、思わずこみあげてくる嗚咽をこらえるのに懸命だった。
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 ここで注目すべきは、〈私を感動させたからというだけではないのである〉という箇所です。

 良い文章は、論理と感情のバランスがとれているものです。「感動」は感情に訴える方法ですから、感動だけではないというのなら、次には何らかの論理性が示されねばなりません。

 しかし、ここでは、「感動」という感情に続いて、「嗚咽」というさらなる感情性が展開されているのです。感情の上塗りによって、読者を説得させようとしているわけです。

 心優しい人間には、こういった手法が効くのだと思いますが、私は非情な人間ですので、こういった手法を疑ってかかります。論理性が示されるべき場面で、感情に訴えるような手法に出会うと、そこに何かが隠されているのではないかと疑ってしまうのです。

 自分で言うのもなんですが、我ながら悪魔的ですね。


 少なくとも、観客が考えるための材料は出揃ったと思いますので、この議論はひとまずここで終了にします。


 Facebookとかで、変なメッセージとかが来ます。

 わざわざFacebookのメッセージで、LINEのIDに連絡くれとかくる。

 かわいい女の子の写真とかで。

 釣りだなぁ・・・。


 書いている内容を見たら、そんなのに興味ないのは分かりそうな気もしますが、そんな確認もしてないんだろうなぁ・・・。

 数打ちゃ当たるのうちの一つってことか・・・。


 一応、FacebookTwitterをやっていますが、全然つかっていない気がします。

 忙しいのと、使い道が分からないのと。

 友達申請とかについては、変な人でなければ基本的にOKです。

 変な人だと後から分かったら、ブロックとかしますけどね。


 最近は、仕事で特許について調べたり、戦略を考えたりする機会が増えました。

 今週は、特に特許についてかかりっきりになったりしました。

 やはり、こういう分野について調べたり学んだりするのは楽しいですね。


 特許がどのようなもので、どのように活動できて、どのように運営していくのかを考えるのは面白いです。

 中でも、海外への展開をどのようにするかは、難しい問題です。

 翻訳の問題もありますし、コストの問題もありますからね。

 国際情勢や、各国の戦略もありますし。


 新しい知識を得て、多角的に包括的に世の中を視るようにすることって、けっこう大事なことだと思います。

 まだまだ勉強が必要ですな。


 昨日の続きです。

 私の使用した「本物」という言葉に対し、eeggeさんという方が〈「倫理の本質」を知る「本物」〉だと考えているようなので、そのような意味ではないですという回答をします。


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eeggeさん、コメントありがとうございます。
 回答させていただきます。

> 木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、
 > と解するならば、非常に重たい議論になってきます。

私が使用した「本物」という言葉は、そのような意味ではありません。

簡単に説明させていただきます。
 藤井聡の『永遠に「ゼロ」?』では、架空の物語の登場人物の行動を、家族そろって大爆笑する場面が出てきます。これは、実際の類似例(復員軍人と戦争未亡人の再婚など)についての嘲笑にもなってしまいますので、人の道に外れた行為なわけです。

人間ですので、間違いを犯すことは往々にしてあるものです。問題は、間違いを犯した後の行動になります。そのとき、どのような仲間がいるのかが重要になってきます。

仲間や尊敬する人物が間違ったことをしたとき、それを注意するのは難しいことです。しかし、その難しいことができないのなら、そんな思想に何の意義があるのでしょうか?

小浜逸郎氏は、『Voice』特別シンポジウム「2015年の安倍政権を占う」で藤井聡と対談しています。にもかかわらず、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉と書いておられるわけです。私に賛成しても、小浜氏にデメリットはあっても、メリットはまったくないわけです。ですから、私は小浜氏を「本物」の批評家だと本記事で述べているのです。

藤井のメチャクチャな意見に対し、間違っていると言えないようなら、そんな人たちは「本物」ではない(と私には思える)ということです。真正保守ごっこを勝手にやってろと思うだけです。

倫理については、私は「言ったらおしまい」とは考えてはいません。
 私は、「言い切ったらおしまい」であって、「言い続けなければいけない」ものだと考えています。つまり、議論しあって、間違っていたら修正すべきものだということです。

ユダヤ教やキリスト教などのように、絶対神の言葉を出してくる思想は、少なくとも私にとってはあまり上等だとは思えないのです。

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 つまり、私のいう「本物」の基準は、まともな議論ができるかどうかということにかかっているのです。

 私は思想をしたいと考えていますが、新興宗教の信者になるつもりはありません。

 教祖を批判できないような人たちと、付き合うつもりはないのです。


 ASREADに、【倫理観の相克と融合 ―小浜逸郎氏の記事に応える―】を1月7日に掲載してもらいました。

 本記事に、eeggeさんという方がコメントを書き込んでくれています。


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eegge 
2015年 1月 21日
返信
 引用
 .

>そもそも現代の日本に、「本物」がいるのかどうか知りたいのです。

木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、と解するならば、非常に重たい議論になってきます。

倫理について、神道では「言挙げせぬ」、仏教では「不立文字」、釈尊は「四十九年一字不説」、山本常朝は「消却せよ」、これらはいずれも同じことを言っているように感じます。「言ったらおしまい」といっているように思えます。「知の情意に対する越権」はやめなさいといっているように解されます。こうなってくると、倫理について議すること自体が無意味ということになって来るのですが・・・。それでも語らねばならないのが倫理。『言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒』

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 素晴らしいコメントなので、回答しようと思います。



 本の数が増えて足の踏み場がなくなってきたので、最近は本を整理して処分したりしています。それに伴い、昔の本を読み返したりもしています。

 気にっている著者の本などは、当然たくさんあるわけです。その本の中には、単著の他に共著もあったりします。共著では、何人かの人たちが集まって、共同で一つの本を出しているわけですね。

 対談本などですと、それぞれの論者の意見が明確化されるのですが、共同研究所などになると、あっさり言うと、ごった煮の見解がそこに示されるわけです。

 理系分野では、共同研究というのは重要で有益な可能性が高いとは思いますが、文系では共同研究って、かなり微妙ですね。

 特に気に入った著者を目当てで本を買うと、単著は良いのですが、共著では書いている内容にイライラすることもあります(笑)。

 三人寄れば文殊の知恵とは言いますが、そううまくはいかない場合も多いものなのですね。

 

 ASERADに、小浜逸郎さんの【パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう】が掲載されています。良記事ですね。勉強になります。特に3ページ目の<イスラム教を愚弄、侮蔑することが「表現の自由」?>の考察は深いです。


 ちなみに、私の最近の記事【『21世紀の資本』と民主主義の問題】や【倫理観の相克と融合 ―小浜逸郎氏の記事に応える―】もよろしくね(←宣伝)。

 前者は、ピケティの本を他とは違う角度から見ていたりします。後者は、男女の倫理観の違いに踏み込んでいます。



 地味に論文の追加・修正をしていたりします。

 角川ソフィア文庫は、かなり良いラインナップなのですが、2013年に鴨長明の『無名抄』が、2014年に『発心集』が出ています。

 それらを論文に組み込みました。

 『日本式 言葉論』『幽玄』『遊び』『恥と罪』『心』、

 『日本式 正道論』『世界と国家と人生、そして道』『神道』『道の思想形』『道の思想基』に追加・修正しました。

 ちょっとの変更ですけどね。

 でも、こういった地道な作業が大事なんですね。


 

 「シャルリー・エブド」の風刺画による殺害事件をきっかけにして、大規模な追悼行進やデモが行われています。

 ここで重要な点は、やはり「言論の自由」についてですね。


 私ははっきり言ってしまいますが、「自由」そのものを価値とする思想は欠陥品なのですよ。

 ですから、「言論の自由」そのものを価値として掲げることに無理があるわけです。

 「言論の自由」を掲げているやつらって、その裏で言論弾圧していたりするわけですよ。


 今回の事件って、あきらかに超えちゃいけない一線を超えたことが大きい要因なわけです。

 風刺画の問題では、その絵を文章で説明し、その内容が侮辱に当たるか否かということを、さまざまな文化的価値を考慮しながら論じないとダメなのですよ。

 当たり前の話ですが、今回の「シャルリー・エブド」の風刺画はイスラム教的な価値観からすると、侮辱表現であり、許し難いものなわけですね。

 まずは、そこを押さえて論じないと、なかなか意味のある言論はできないでしょうね。


 今日は、関係のある代理店の頼みで、ある展示会の説明員をしてきました。

 早く起きて準備・説明・撤収までやったので、けっこうたいへんでしたね。

 飲み会も、二日連続なのできつかったです。


 ですが、やはりこういった経験は貴重です。

 いろいろな人と知り合いになれますしね。


 いろいろな人と知り合うのは、大切なことですね。

 やっぱり、社会に出て経験を積むことで、なんとかまともでいられたりするのかもしれませんね。

 狭い世界に閉じこもっていると、性格も歪んだり、精神も変な感じになったりする人もいますからね。

 人付き合いを通じて、自己を見つめ直すことも必要ですね。



 2015年度になり、もう半月が経過しました。

 月日の経つのは早いものです。

 というわけで、2014年度前半の日記から、少しだけ抜粋してみました。


≪日記の抜粋(2014年前半)≫

2014/02/01 間違いを指摘することについて

2014/03/04 広島

2014/04/05 映画「桐島、部活やめるってよ」見てみました。

2014/04/08 現代日本の天才について

2014/05/13 間違いを指摘するとき

2014/05/20 眠くても本を読むとき

2014/06/01 情報について少々


 今年もいろいろあるような気がします。


近況

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 最近は仕事も忙しいですし、私生活も忙しい感じです。

 執筆の時間がなかなか取れませんな。

 執筆といっても、書くテーマによって脳の切り替えが大変なので、そのための時間も必要だったりします。

 時間をうまくつかって行きたいですね。


 今日は、フィットネスに行ってきました。

 やっぱり、筋トレも大事だし、有酸素運動も大切です。

 仕事をするには、体力が必要です。

 体力や筋力って、かなり重要ですよ。

 寄生獣13話を見ながら自転車をこぐと、時間を忘れられるのです。


 最近は、けっこう本を読んでいるのですが、めんどくさいので感想はあまり書いていませんね(汗)。

 感想を書くって、けっこう大変なのですよ。

 本の感想を楽しみにしていくれている人がいるかどうか分かりませんが、他のことに時間を優先的につかうようにしていたり・・・。


  (1)(2)(3)(4)(5)の続きです。「倫理の起源58」参照のこと。

 さて、あまり【小浜逸郎・ことばの闘い】のコメント欄に書き込みまくるのも迷惑になると思うので、続きは本サイトで。


 この議論に関しては、誰の味方もせずに、公平さを心がけていきます。


 で、小林よしのり氏の『戦争論』について少々。

 小浜氏は、〈彼が特攻隊精神を美化しているという根拠は、『戦争論』(オリジナル版1998年幻冬舎刊)の17章と21章、特に17章です〉と述べておられます。

 ちなみに、問題の章題はそれぞれ、「第17章 クニを護るための物語」と「第21章 個を超える勇気と誇り」になります。

 それぞれ特攻精神に関わっている章ですが、〈特攻隊精神を美化している〉というのなら、「第7章 特攻精神」を取り上げないとフェアではありません。

 というわけで、第7章から重要な部分を引用してみます。


<p.82の3コマ目>
 こう見てくると"無駄死に"とか"犠牲者"とか言われる非合理な特攻もあったようだ


<p.92の2コマ目>
 特攻隊をひたすら美化するつもりはない

 死にたくなくても追いやられてしまった者もいるかもしれない

 明鏡止水の者ばかりではなかったかもしれない

 恐怖にふるえていたかもしれない


<p.92の5コマ目>
 戦局の悪化から米軍を本土上陸させたら日本は滅亡してしまう

 郷土は焼き尽くされ

 愛する者たちは殺され 犯され 奴隷と化してしまう

 考えに考えた末 祖国を救うために一発逆転にはもはやこれしか残されてないと志願した者たちは?


 以上の内容が第7章にはきちんと明記されているわけですから、〈特攻隊精神を美化〉しているという非難には賛同できないわけです。


 (1)(2)(3)(4)の続きです。

 小林よしのり氏の『戦争論』の見解を含め、「倫理の起源58」のコメント欄に私の意見を書いています。


*************************************************************

小浜さん。丁寧な回答ありがとうございます。

小林よしのり氏の『戦争論』については、小浜さんの〈あたかもすべての特攻隊員が〉や、〈銃後の人たちがみな〉という記述から、存在命題か全称命題かの問題だと判断できます。
つまり、小林氏が存在命題を全称命題として描いているのなら、小浜さんの言うように美化していると言えることになります。
『戦争論』(手元になかったので第58刷を購入)の17章と21章を読んでみましたが、文章(漫画ですのでセリフ箇所を含む)からは、残念ですが全称命題だと判断できませんでした。漫画の絵のイメージから、小浜さんが全称命題として描いていると判断されたということでしたら、(絵の解釈問題になりますので)残念ながら私はその見解には与しません。
ちなみに、他作品との深みの優劣に関しては、美化しているか否かの判定とは関係ありませんので割愛させていただきます。

特攻隊員の人物像(A)~(D)については、私の見解では(A)=(C)になります。
小浜さんは、〈特定の個人の心理を細かく分析していますが、(中略)あまりそのことを細かく詮索しても生産的でない〉とおっしゃっていますが、もともと「倫理の起源58」が特定の個人の心理から、特攻のイメージについて論じているではないですか。
私は、(B)タイプも居たであろうことに同意します。〈軍上層部の作戦の無謀さ〉や〈あまりの人命軽視〉について批判的に検討する必要性があることにも同意します。
私が嫌なのは、「死人に口なし」ということを良いことに、(A)タイプ[(C)タイプでも良いです]と思われる人物を、明確な根拠もなく勝手に(B)タイプにしてしまうことに対してです。
仮に小林氏が「美化」していたのだとしても、その批判のために「醜化」する人とは共闘できないということです。

その点に関しては、〈公のために死のうとか、そんなことは全然ない〉と言っている林氏はともかく、小浜さんは「この特攻隊員」を(C)タイプと考え、〈そこそこ、あるいは人並み以上の公共心〉があると見なしているのですから、私の認識とそれほど相違がないことが分かりました。

仲間意識につきましては、私も後者(不良少年の仲間意識)の可能性はあまりないと考えています。ここで私が言いたかったことは、公のない〈軍人としての共通の職業意識〉は成り立ち難いのではないかということです。ですから逆に、〈そこそこ、あるいは人並み以上の公共心〉を持つ者たちの〈軍人としての共通の職業意識〉なら十分に理解できることになります。

以上、私の煩雑な議論にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

*************************************************************

 美化しているという非難については、どのように美化しているのかという定義をはっきりさせないと議論ができません。後は、その定義に適っているかどうかという話です。それが文章でしたら、判断しやすいのですが、絵のイメージだと判断が難しくなります。その絵の解釈が、一般的な解釈でそうだと見なされると言えるなら、絵についての論評も可能でしょう。しかし、その解釈が恣意的なものなら、私は論拠にはならないと判断します。

 また、存在命題とか全称命題とかは、論理学の用語になります。普通の人には難しいかもしれませんが、哲学をやっている人なら通じる用語なので、厳密に論じるためにこれらの用語を用いて論じています。分からない人は、ググってください。



 (1)(2)(3)の続きです。

 議論が長くなってしまったので、過去の日記を含めて題名を修正して統一しました。


 さて、私の見解について、小浜氏から丁寧な回答をいただきました。

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コメント、ありがとうございます。

まず、小林よしのり氏についての私の発言に対するご意見にお答えします。

彼が特攻隊精神を美化しているという根拠は、『戦争論』(オリジナル版1998年幻冬舎刊)の17章と21章、特に17章です。漫画ですので、ここに文章として引用しても、そのリアリティがじゅうぶん伝わりませんから、お手数ですが、原典に当たってみてください。

彼はこの章で、あたかもすべての特攻隊員が、国のために死ぬことで英雄になれるので、国が提供してくれた物語に進んで参加したかのようなイメージを描いています。また銃後の人たちがみな、心から祝福して見送ったかのように描いています。
もちろん、そういう人たちも少しはいたでしょうが、それは多くの実態と食い違いますし、何よりも、隊員たちと見送る人たちの奥底に秘めた複雑な心境が描かれているとは思えません。小林氏のこの部分は、戦中に作られた木下恵介監督の『陸軍』のような映画が持つ深みに達していないと判断されます。

次に、木下さんは、上記のコメントで、「この特攻隊員」という形で、林氏が見聞した特定の個人の心理を細かく分析していますが、それは、情報のあいまいさからいって確かめようのない問題であり、あまりそのことを細かく詮索しても生産的でないと私は思います。

実際には、(A)のような人もいたでしょうし、(B)のような人もいたでしょう。また、

(C)そこそこ、あるいは人並み以上の公共心の持ち合わせはあるが、さすがに死ぬことが決定的であることがわかっている以上、そのことを納得するために深刻な悩みと葛藤をくぐりぬけなくてはならなかった人

とか、

(D)『永遠の0』の景浦のように、冒険心と戦闘意欲が旺盛で、死を賭することにためらいをさほど感じない人

などもいたと考えられます。私の判断では、(C)タイプが一番多かったのではないかと思います。これは想像になりますが、林氏の奥さんのいとこさんや兄さんというのも、まあ、このタイプに入るのではないでしょうか。

このことから考えて、私は、林氏が自分の都合のいいように人物像をゆがめているとは思いません。ただ、林氏の言い方に問題があるとすれば、個別の見聞をあたかもすべての特攻隊員の心理を表しているかのように一般化している点でしょうね。それは、小林批判のモチベーションの強さがそうさせたのでしょう。

次に、木下さんは、「小浜さんは、〈「志願」という形を一応とりながらも、半ば強いられてそうせざるをえなかった〉と述べています。しかし、半ば強いられていたにせよ、「志願」して行ったのだと言うこともできます。そして、前者と後者の言い方では、当の特攻隊員の決断の重みがまったく異なってきます。」と書かれています。

この両者の言い方では、どうも「志願」という言葉がマジックワードになってしまっている趣があります。もちろん木下さんのような言い方も可能だと思います。そちらを選ぶなら、おっしゃる通り、決断はそれだけ重いものとなるでしょう。

でも先に書いたように、私の考えでは、人は自分で思っているほど自由な選択意志をはたらかせて行動しているのではありません。その時々の状況に動かされている部分がとても大きいと思います。強制か志願か
という「言葉」の二項選択にこだわると(木下さんがこだわっているというのではありません)、実態に対する想像力が犠牲になりがちです。いろいろな心理状態の人がおり、ひとりの人でも日によって変わり、動揺から決断の境地へと自分を何とか仕上げていったというのが
実情ではないでしょうか。

なおご存知と思いますが、特攻隊要員と実際に出撃が決定される特攻隊員とは違っています。前者は軍の命令によって配属が決まるので、自由な選択の余地はありません。議論深化のためにはこの辺のことも考えておく必要がありそうですね。

最後になりますが、木下さんは、こう書かれています。

「ちなみに〈仲間意識〉についても、そこに公があるかどうかで、評価はまったく異なります。その仲間意識が、警察官や自衛隊員が抱くものと同系のものなのか、それとも仲間外れにされたくなくて道を踏み外す不良少年と同系のものなのかという区別が成り立つからです。」

これについては、私は、後者の可能性はあまりないと思いますよ。ここでの仲間意識は、やはり同じ戦争を戦っているという同朋意識であり、軍人としての共通の職業意識でしょう。決死の覚悟があればこそ、その同朋意識はますます強くなったものと思われます。私の記述が、少々舌足らずだったことを認めたいと思います。

総じて、私が、けっして隊員自身の「やる気」を疑っているのではなく、軍上層部の作戦の無謀さ、あまりの人命軽視を批判しているのだということをご理解ください。

ではまた。

*************************************************************

 私は、小林よしのり氏の味方をするつもりも、小浜氏の味方をするつもりもありません。その議論が筋が通っているなら賛同しますし、筋が通っていないなら賛同できません。

 小林よしのり氏『戦争論』は、昔読んだことがありますが、今は手元になかったので、本屋で買ってきました。大阪だと、すぐに本屋に駆け込めるので便利です。第58刷でした。息の長い作品ですね。

 『戦争論』についての見解を述べて、この議論は終わりかな?


 ASREADに、 【倫理観の相克と融合 ―小浜逸郎氏の記事に応える―】が掲載されました。以前に、小浜逸郎氏が【『永遠のゼロ』を私はこう見る】で論じた内容について応えたものになります。


 一昨日昨日の続きです。

 質問に対する回答をいただいたので、私の見解を「倫理の起源58」のコメント欄に書いています。

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小浜さん。回答ありがとうございます。
質問に対する回答をいただきましたので、私の見解を述べます。

特攻を選択した誘因として、〈上層部の圧力〉や〈仲間意識〉が挙げられるという点について同意します。また、〈「志願」という形を一応とりながらも、半ば強いられてそうせざるをえなかった〉特攻隊員がいたであろうことも同意します。

ちなみに、私は林道義氏に会ったことも著作を読んだこともありません。林氏に個人的な好悪の感情は皆無です。ですから、ここで述べる見解は、「倫理の起源58」の記述を基にし、できるだけ客観的に考えた結果にすぎません。

その結果、林氏の述懐については、私はまったく賛同できません。
以下、その理由です。

まず、当の特攻隊員がどう考えていたのかについてですが、何重ものクッションが入っている影響もありますが、林氏の述懐は曖昧で分かりづらいです。文章を読んだ上で、私は次のどちらかだと推測します。

(1)この特攻隊員が、〈自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけない〉と言葉で家族に伝えた。そして、その言葉を林氏が伝え聞いた。

(2)この特攻隊員の雰囲気から、家族が〈自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけない〉という印象を受けた。そして、その印象を林氏が伝え聞いた。

(1)でも(2)でも、私の結論に違いはありません。また、小浜さんの〈これはいとこさんが自分で述べたのではないでしょうね〉という意見を尊重し、(2)だと見なして議論を進めます。

林氏は、〈志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない。〉と述べています。ですから、この特攻隊員に二つの人物像が提示されたことになります。

(A)自分は死にたくないが、国のためには行かなければならないと考えた人物。
(B)国という公のために死にたくないが、強制されたのでしょうがないと考えた人物。

この(A)と(B)の人物像は、まったくの別人です。
そして、この特攻隊員の家族が受けた人物像と、林氏が述べている人物像のどちらを信頼すべきかは、私には明らかです。念のために言っておくと、私はこの特攻隊員は(A)であり、林氏は彼の人物像を自分の都合の良いように歪めていると思えます。

ちなみに、小林よしのり氏が〈特攻隊精神を美化〉しているという件については、少なくとも「倫理の起源58」には納得できる論拠が示されていないため、同意できません。その論拠を提示していただけるなら、読んだ上で再度判断させていただきます。

小浜さんは、〈「志願」という形を一応とりながらも、半ば強いられてそうせざるをえなかった〉と述べています。しかし、半ば強いられていたにせよ、「志願」して行ったのだと言うこともできます。そして、前者と後者の言い方では、当の特攻隊員の決断の重みがまったく異なってきます。

特攻を選ぶ誘因には、〈上層部の圧力〉の他に、「国という公のために」という理由も当然挙げられます。それらの要因が複雑に絡み合うわけです。そのとき実存的に考えるなら、当の特攻隊員が、(いくつもの誘因の中で)自分の死を決断した最大の動因が何なのかということを問わざるをえなくなります。
最大の動因が、強制されたものなのか、公心に基づいたものなのかが問われるということです。その答えによって、公心も主体性もない人物なのか、公心を持つ主体性のある人物なのかが明らかになるということです。もちろん、各誘因の比重によって慎重に考えなければならない問題だということは分かっています。

ちなみに〈仲間意識〉についても、そこに公があるかどうかで、評価はまったく異なります。その仲間意識が、警察官や自衛隊員が抱くものと同系のものなのか、それとも仲間外れにされたくなくて道を踏み外す不良少年と同系のものなのかという区別が成り立つからです。

以上の見解から、林氏の述懐について、私はまったく賛同できませんでした。

 

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 長々と書いていますが、私の見解の筋は単純なものです。

 つまり、家族はその特攻隊員から公心を感じたのに、それを伝え聞いた林氏は公心はなかったと言い出していて、変だということです。

 

 昨日の続きです。

 【小浜逸郎・ことばの闘い】サイトの「倫理の起源58」について、質問を書き込みました。それに対し、小浜さんが回答してくださいました。

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ご質問、ありがとうございます。

質問1ですが、林氏の奥さんの話、それを聞いた当時の林氏が抱いた印象、さらに私に向かって語った時の林氏の考え方など、何重にもクッションが入っているので、私の口から確たることは言えません。ただ、文章から推測すると、これはいとこさんが自分で述べたのではないでしょうね。

質問2にまたがってお答えすることになりますが、林氏は、当時の身辺の状況と世間の雰囲気とを感覚的によく記憶しており、その記憶に従って「志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない」と語っているのでしょう。「全然ない」という表現は、たしかにやや極端に聞こえます。ただこれは、小林氏のように戦争を知らない人がとかく特攻隊精神を美化する傾向がありがちなのに対する強い警告の気持ちから出た表現だと思います。話し言葉の勢いということもあるでしょう。

いずれにしても、肝要なのは、当時の特攻隊要員の誰もが、自由意志による選択に基づいて「志願」したとはとても言えないのではないかということです。その点で私は、林氏の述懐に賛同するのです。

そもそも平和時においても、個人には自由意志による行動選択の余地など意外に少ないと私は考えています。ましてあの時代状況の中では、「志願」という形を一応とりながらも、半ば強いられてそうせざるをえなかったというのが実態ではないでしょうか。ここで、強いられるというのは、単に上官の命令に服従するという意味ではありません。本文中で、「一応志願という形を取りつつ、状況の切迫と上層部の圧力と同志からの脱落を潔しとしない仲間意識とが、若者をして「志願」にマルをつけさせざるを得ないような力としてはたらいたのである。」と書いた所以です。

以上、お答えになりましたでしょうか。

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 回答ありがとうございます。

 質問に対する回答をいただいたので、次は私の見解を述べる段階になります。

 

PS.

 ASREADに小浜逸郎氏の【『永遠のゼロ』を私はこう見る】が掲載されていますが、その中で私の昔の記事【「永遠の0」にとんでもない難癖をつけてしまった京都大学大学院教授】に言及があります。

 小浜氏の記事に対して、私なりの回答をすでにASREADに投稿しています。いつ掲載されるかは分かりませんが、掲載されたら宜しかったら読んでください。

 

 

 

 だいぶ前からですが、LINKに【小浜逸郎・ことばの闘い】を追加しています。

 このサイトの「倫理の起源58」(2015年1月3日掲載)の内容に違和感を覚えたため、コメントで質問してみました。

 

 以下、違和感を覚えた箇所です。

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 1999年に、ユング派の心理学者・林道義氏(ベスト・セラー『父性の復権』の著者)との対談集を出した(『間違えるな日本人!』(徳間書店)。このなかに、漫画家・小林よしのり氏の『戦争論』(1998年・幻冬舎)をかなり長く批評した部分がある。当然特攻隊の問題にも言及したので、その箇所における林氏の発言を一部引用しておこう。

 もう一つは、(小林氏の『戦争論』の中に――引用者注)特攻隊を美化する表現がありますが、特攻隊の人たちは、国のためを思って自発的に参加したわけではない。志願したというけれども、自発的な志願ではありません。ここの部隊では何人の特攻隊員を出せというようにノルマとして上から来ている。そして説得があって、最終的には志願という形になりますが、本当の純粋な志願などではない。
 私の親戚に特攻隊員が何人かいましたが、一九四五年の正月に妻のいとこが特攻に出撃する前に、暗黙のうちに家族に別れを告げに帰ってきた。そのときの話を聞いてみると、それはかわいそうです。自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけないという感じで、無口で暗い沈んだ感じだったそうです。かっこいい白いマフラーを巻いてさっそうとした姿ではあったが、何か淋しげだったそうです。
 妻の兄が軍国少年で、特攻隊に志願したいというのに対して、そんなことはやめろと言う。「親を泣かせてはいけない」「戦争に行ってはいけない」と言ったそうです。そして、妻に凧を買ってくれて、二人で丘の上へ行って凧を揚げていると、飛行機が飛んでいくのが見えた。「お兄さんもああいうふうにして飛んで行くのね」というと、何にも言わず、ただ空を見ていたそうです。そしてしばらくして戦死してしまった。本当に優秀で男らしくて立派な若者だったそうです。もっと早く戦争を終わらせていれば死ななくてすんだという家族の思いは、『戦争論』の中には出てきませんね。
 ですから美学などというものではありません。志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない。なかには本当に信じ込んでいた人もないとは言いませんが、多くの人は半ば強制されていた。公共のために死ぬんだなんて、それ自体が美しいかどうかは別として、実態はそういうものではないんですね。

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 次に、コメントで質問した内容です。 

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「倫理の起源58」に記載されている林道義氏の発言に違和感を覚えました。私が彼の意図を読み間違っているだけかもしれませんので、2つほど質問させてください。

質問1:林氏の発言に、「自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけないという感じで、無口で暗い沈んだ感じだったそうです。」という箇所があります。「~という感じ」とありますが、これは「妻のいとこ」が実際に述べた内容なのでしょうか?

質問2:質問1の答えにもよりますが、「自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけないという感じで、無口で暗い沈んだ感じだったそうです。」という文章と、「志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない。」という文章では整合性が取れていないように思えます。林氏は、「妻のいとこ」が嘘を吐いたと主張しているのでしょうか? 説明していただきたいです。

以上、ぶしつけな質問ですが、回答いただけると幸いです。

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 つまり、「国のために行かなければいけない」と言っている(?)のに、「公のために死のうとか、そんなことは全然ない」と言っているのは変じゃないかということです。

 おそらく、私と小浜氏の「特攻」についての見解は異なっていると思われます。その相違を、できれば議論によって深められればと考えています。

 

 少なくとも私は、議論の筋が通っている意見に賛成するつもりです。その際、私の発言に間違いがあると分かれば、きちんと修正するつもりです。

 

PS.

 小浜氏へは、事前にメールで、

> ブログの方も新しいものから読み始めています。
> 疑問点など浮かびましたら、コメントを投稿させていただくかもしれません。

と述べています。念のため。

 

 文字サイズが小さかったので、大きくしてみました。

 13pxから16pxへの変更です。

 

 本ウェブサイトは、movabletypeでスタイルMinimalist Redを使っているのですが、変更が面倒でした・・・。

 管理画面からは変更できなかったので、FTPソフト使って何とか変えてみました。

 かなり読みやすくなったような気がします。

 

 

 

 昨日は、映画「ベイマックス」見てきました。

http://www.disney.co.jp/movie/baymax.html

 面白かったです。

 何とかレンジャーって感じですね。

 私のような少年の心を持った人間には、たいへん面白い作品ですね。

 一緒に行った人は、最後のエンディングで欠伸してましたけど(笑)。


 非常に丁寧に作られていると感じられました。

 でも、ぶっちゃけ主人公の少年が天才過ぎですよね。

 お前一人で、世界征服できるだろってなもんです(笑)。

 人類は、彼がダークフォースに墜ちないことを祈るのみですね。

 彼が何でもアリになると、完全に無敵ですし。


 犯人とか、最後の仕掛けとかは、予想の範囲内ではありますが、そこらへんを重視する作品ではないので、あまり気にせずに見ましょう。

 やっぱり、ベイマックスが良い味を出していますよね。

 あと、サブキャラも良い味を出しています。あまり活躍していない気はしますが(笑)。

 一つだけ不満点を挙げるとすれば、イエローの人はカレー好きという設定にしてほしかった・・・。


 お正月といえば、初詣ですね。

 今年は、高槻の上宮天満宮に行きました。

 1日に行ったのですが、雪がすごかったです。

 温泉に入った後に行ったので、暖まった体が冷えてしまいましたね。

 正月早々、雪でしたが、おみくじは「中吉」でした。

 私はくじ運は悪い方なので、中吉はかなり良く感じられます。

 後は、TSUTAYAに行ってDVDを借りたり、映画を見に行ったり、まったり正月を満喫しました。


 あけましておめでとうございます。

 今年もよろしっくお願いします。


 正月は、久しぶりにゆっくりできました。

 今年も頑張っていきます。


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