国際主義とは、各国は、各国ごとの独自な文化をお互いに尊重しようね、という考え方のことです。
でも、国際主義者どうしでも、けっこう考え方に隔たりがあります。ですから、国際主義者どうしで討論する場合にも、相手がどのような考え方を持っているかに応じて、論理の方向性を変える必要があります。
例えば、日本の場合で考えてみます。日本人に合った日本らしさを採用すべきだという考え方と、日本は普遍的なことを取り入れるべきだという考え方があります。まあ、ある種の正解を言ってしまうと、両方をバランス良く行っていけば良いだけの話ですよね。でも、状況や論者によって、どちらかに比重が偏る場合があります。そうしたとき、どうすれば良いか?
日本らしさを追及する相手の場合には、基準は日本の歴史や伝統になります。その基準によって、相手の論理を崩すことができるわけです。日本人の気質に合っているとか、そういう意見も有効な根拠の一つになるのです。
それに対し、普遍性を追求する相手の場合には、基準は普遍性になります。相手の普遍性に対して有効な反論を提示することで、相手の論理を崩すことができるわけです。日本人らしさを武器とする場合には、その特殊な考え方を組み込むことによる普遍的な有用性といった観点から説得する必要があるわけです。単に、日本人の好みに合っているとかでは通じないわけですね。
こういった思考の切り替え方は、けっこう重要だと思います。
でも、国際主義者どうしでも、けっこう考え方に隔たりがあります。ですから、国際主義者どうしで討論する場合にも、相手がどのような考え方を持っているかに応じて、論理の方向性を変える必要があります。
例えば、日本の場合で考えてみます。日本人に合った日本らしさを採用すべきだという考え方と、日本は普遍的なことを取り入れるべきだという考え方があります。まあ、ある種の正解を言ってしまうと、両方をバランス良く行っていけば良いだけの話ですよね。でも、状況や論者によって、どちらかに比重が偏る場合があります。そうしたとき、どうすれば良いか?
日本らしさを追及する相手の場合には、基準は日本の歴史や伝統になります。その基準によって、相手の論理を崩すことができるわけです。日本人の気質に合っているとか、そういう意見も有効な根拠の一つになるのです。
それに対し、普遍性を追求する相手の場合には、基準は普遍性になります。相手の普遍性に対して有効な反論を提示することで、相手の論理を崩すことができるわけです。日本人らしさを武器とする場合には、その特殊な考え方を組み込むことによる普遍的な有用性といった観点から説得する必要があるわけです。単に、日本人の好みに合っているとかでは通じないわけですね。
こういった思考の切り替え方は、けっこう重要だと思います。
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