S意見について回答することで、議論を深めていきます。
******************************************************************************************************
https://twitter.com/littlefield1988/status/355516453354602498
その「特殊」は「普遍」を背景にしているからこそ意味があるのだ。
******************************************************************************************************
まずは、この意見についてです。
この意見は、一件してその通りだと思われるかもしれません。
確かに、そうです。
社会通念的な観点からは、その通りです。
つまり、自分を特別視する立場を放棄し、他者とは異なる自分という存在に関わる性質を剥奪した視点に立つなら、その通りです。
ある意味で、宗教的な神の視点に立った場合の意見でもあります。
しかし、この意見に対し、次のような反論が可能です。
えっ? 何を言っているんだい?
その「普遍」は、この「特殊」を背景にしているからこそ意味があるのだ。
これは、一瞥して、エゴイズムの一種と見られがちです。
ですが、いくつかの価値観を包含する意見たり得るのです。
例えば、だって、現に世界はそう成っているじゃないか、という観点からの意見。
一段深い立場からの、倫理学における意見、などですね。
すくなくとも、哲学的には、現象学や実存哲学につながる考え方ではあります。
ですから、思想や哲学的に理論を深めようとする場合には、このところの差異の扱いには、繊細な注意を必要とするのです。
少なくとも、偉大な哲学者(例えば、ウィトゲンシュタインやニーチェや西田幾多郎)には、「普遍」を背景にした「特殊」という単一構造を許さない(もっと言うと、許せない)という視点が織り込まれています。なぜなら、現に、世界は、それほど単純じゃないじゃないか、という話です。
もちろん、そのような単純な世界に安住することは、その人の勝手です。
ですが、それなら、そういう世界に黙って住んでいれば良いわけで、そのことを語ることは慎むべきです。
使用するコップを、100円ショップで購入することには何の罪もありません(現に私も100円ショップのコップを使っていますし)。しかし、100円のコップの存在によって、高価で繊細なガラス細工のグラスを否定することは、そういったグラスを愛でる者たちにとっては、野蛮な行為に映ってしまうのです。
コメントする