人物評価について少々

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 人間、生きていく中で、他人を場合分けしています。

 これは、構造上における問題の話です。

 この問題を考える場合に、他人の評価を公表するという事象の考察が、ある程度のレベルでは鮮明化します。

 保守主義について考えるとき、西部邁さんの『日本の保守思想』を読んでいて、次のような言葉があったんですよね。

 

  さるインテリ人士から、酒席の上で、「君は教養がないねえ、君の知識は『全集』に頼っているにすぎんじゃないか」といわれたことがある。私に教養がないというのはまったく本当のことであるが、『全集』に頼る云々については異論がある。自分の気分なり脳漿なりに深く染み込んでくる人物の言説について公に何事かをいおうとするとき、その人物の作品群の全体像を観望し、そうすることによってその人の人物像を把握したいと私は思う。そうしてみるまではその人物について物をいう自信がもてない。それが私の流儀である。私の流儀が最善であるかどうか、そんなことは知らない。

 

 なるほどなぁと思うわけです。

 知識人として誠実だと思いますね。

 ただ、専門的な知識人でない場合、やはり全集を通して読むというのは現実的ではないと思います。

 他にも、この流儀を原理としてしまうと、「全集を読み通していないのに批判するな!」という戦略が可能になるんですね。これは、逆にまずいわけです。

 ですから西部さんは、自身にはこの流儀を用いて、一般的にはこの流儀が最善であるかは知らないと述べているのだと思います。この態度はさすがだと思いますね。

 で、私の考えなのですが、全集を読むまでは行かないでも、他人を非難する場合は、その人の言ったり書いたりしたものに基づくべきだとは思うわけです。

 特に、問題となっているテーマでの本が出ている場合は、その本のさわりくらいは読んで、どの部分がどのような理由でおかしいかを指摘しないと、安易に人を非難するのはいけないと思うんですよね。

 私は、「悪口はいけない」というような安易な道徳論には与しません。

 ただ、悪口を言うなら、その人が卑劣であったり愚劣であったりする理由の提示が必要だと思うわけです。

 根拠を示すことなく他人を非難する人って、私は関わりたくないですね。

 特に、微妙に言葉を濁しながら悪口を言って、言い逃れできるようにしている人とかですね。

 私は本ホームページ上で何度も言っていますが、私が間違っていることを指摘していただければ、その指摘にうなずけなければ反論しますし、その指摘にうなずければ謝罪して訂正します。

 議論は、何らかの正しさにたどり着くことに意義があると思うわけです。

 そのためには、議論の前に、最低限の礼儀作法があると思うのです。

 例えば、根拠なしに悪口を言わないとか、言葉を濁して言い逃れできるようにしないとか、その人が居るときと居ないときで態度を変えない、とかですね。

 作法に反する人に対しては、私なら無視するか、もしくは私に被害が及ぶ場合には議論でたたきつぶしますね。

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