今日は8月15日ですね。
そんな日だけに、ちょっと考えてみます。
国家などの共同体では、善悪における共通性が必要となるため、ほぼ必然的に歴史に言及するようになります。歴史に言及するときには、当然ながら、先祖たちに向き合うことになります。一般的には、先祖を称えることが国家を維持する有力な方法になります。
ただし、国家などの共同体は、他の共同体との関わりにおいて存続します。そのため、ある国家が先祖を称える行為は、他の国家からの干渉を受ける可能性があるわけです。もしくは、一つの国家内においても、その中に存在するグループごとによって、先祖の称え方について相違が生まれる場合もあります。
ここには、(不思議なことにあまり言及されることのない)一つの大きな論点があると思うのです。
その論点とは、「国民による"生者"と"死者"の対比」という問題です。
簡単に言ってしまうと、生者を尊重して死者をないがしろにするか、死者を尊重して生者をないがしろにするか、二つに一つという状況がありえるということです。
このような場合、実用主義的に、生者を優先するという思考が生まれます。死者は死んでしまって居ないのだから、現実に生きている生者を優先すべし、ということですね。
これはこれで、理に適っています。一見理に適っているのですが、歴史を注意深く観察したとき、面白い結果になることが、分かる人には分かると思います。
私は『日本式論』というホームページを運営していることもあり、日本の思想に基づいて考えてみようと思います。
日本では、死ねばみんなが神様仏様になるわけですね。死ぬと仏様になって、しばらく経つと神様になるという考え方もあるようですね。
つまり、日本では、死者は生者よりも偉いのです。ドドーーーン!
私の親類関係では、実は戦争での死者っていないんですよね。それでも私は、日本の英霊に最大限の敬意を表しているわけです。
私にとっては、生き残って大東亜戦争に否定的になった親類よりも、日本のために散った親類でもない英霊の方が偉いのです。
私は、死者への侮蔑って基本的に嫌いなんですよね。もちろん、ヒトラーとかスターリンとかは侮蔑しますけどね。つまり、きちんとした理由なしに、自分の好みとかだけで死者を侮辱するやつは赦せんってことですね。
死者をバカにするって、簡単だし安全ですからね。でも、そういうのって、何か嫌ですね。そう思いませんか?
だから私は、死者をおとしめる生者に喧嘩を売るという、非常に非生産的で賢くない生き方をしているわけですね(笑)
我ながら、バカな生き方だなぁ。
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