批判するということについて、ちょっと考えてみます。
例えば「本の感想」なんかで、私は他人の書いた本について批判したりしているわけです。その批判の結果は、賞賛の場合もありますし、非難の場合もあるわけです。
ですが、たとえ非難する場合でも、批判の対象に取り上げる本というのは、実はそれだけで一定のレベルには達しているのですよね。
例えば、言葉の意味を一般的なレベルで使用しているとか、意見を反証可能なレベルで示しているとかですね。私は海外の文献については翻訳でしか読めませんが、一定の水準に達しているものは出来の悪い日本人の本よりも読みやすかったりします。言葉の意味や、文章の構成や、意見の論理構成などは、かなりの程度で人類にとって普遍的だと思われるのです。そもそも意見の対立が成り立つには、意味における暗黙の同意が必要ですからね。この隠された意味の次元について考えると、わくわくしてきますね。
えっ? そうでもない? 俺だけか?
まあ、意味における暗黙の同意があるため、古今東西の様々な本を読むことで、その著者と仮想的に議論することができるわけです。それって、けっこう素敵なことだと思うのです。
で、批判する場合についてなのですが、学問的か政治的かでかなり方向性が異なってくると思われるのです。特に民主政体の場合はですね。
民主政体の場合、政治には多数派工作が不可欠です。政治的な目的を達成するために、同じ党派内での批判を防ぎ、対立する党派への批判を効果的に行うことが戦略として選ばれたりします。民主政体では、自身の属する党派が、国家などの共同体において最大多数を取ることが重要視されるわけです。
ただ、学問も、現在の日本の大学などでは、かなり党派性が強いように思われます。学問の政治化とでも言えばよいでしょうか? 学派が形成されているような気がするのですよね。その教授の下についたら、その教授を批判するような言説はできないとかですね。何か嫌ですね。現代の経済学なんか、特に党派性が強いような気がしますね。
ですが、本来の学問(学んで問うということ)の立場においては、議論の上で何がより正しいかを追求していくべきだと思うのです。そのとき、批判対象は、自分の意見と大幅に異なった意見よりも、自分の意見に近いけどちょっとだけ違う意見の方が都合良かったりする場合が多々あるのです。
微妙な違いを明らかにし、批判し合うことで議論を展開し、何がより正しいかを追求することができるようになるのです。思想や哲学という分野では、こういった営みが非常に重要になってくるのです。
ここで注意が必要なのは、学問と政治では方向性が違うために妥協が必要だ、などというのは愚論だということです。政治には演説などが必要になってきますが、演説ではある種の単純化が行われます。しかし、その単純化を行うためにも、その背景には厳密な学問的成果がなければならないのです。良く理解しているからこそ、かみ砕いて話すことができるのです。
ですから、高度な政治においては、党派内において活発な議論が展開されていることが必要なのです。同じ党派内での批判を防ぐというのは、下策なのです。上策は、もちろん、活発に議論して意見をより正しい方向へと導くことです。
ただし、これは決定的に難しいことです。議論をするということは、自分が論破されるということも覚悟しなければなりません。すなわち、自分の自尊心が傷つけられる可能性があるわけです。そのため、「綿密な議論の上で意見を広める」という学問と政治の見事な調和は、桁違いの難易度になってしまうのです。
このレベルは、ほとんど人間には不可能なレベルの話なのかもしれません。それでも、それを志向することは大事なことだと思います。この志向において、 あなた の人格が問われるのです。
すなわち、単に反対派を打倒することに快楽を見いだすのか、より正しい意見を求めることに意義を見いだすのか、という決定的な違いがあらわになってしまうのです。
実に、恐ろしいですね。
※ たとえ自分が間違っているという事実を突きつけられようとも、それが、より正しい何かに近づくためなら構わない。このように思っている人は、もしかしたら『日本式論』が役に立つかもしれませんし、役に立たないかもしれません。
※ たとえ正しい意見だとしても、自分が間違っていると指摘されるのは嫌だという人は、『日本式論』を精神衛生上の理由から見ないことをお勧めしておきます。
※ もちろん、私の意見に間違いがあれば指摘してください。喜んで修正します。当然ながら、その指摘に最低限の礼儀が守られていることが必要ですが。
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