貨幣は内生説で説明しきれるか(7)

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 さて、前回のことは忘れて、気を取り直してもう少しだけ貨幣について論じてみます。
 内生的貨幣供給の歴史について、内藤敦之氏の『内生的貨幣供給理論の再構築』を参考にして少々述べてみます。
 内生的貨幣供給という概念は、意外に古かったりします。古典派の時代でも、内生的貨幣供給を主張する銀行学派と外生性を重視する通貨学派の間で通貨論争などが起きていたりしたそうです。そこらへんはあまり詳しくないので飛ばして、20世紀になると、ケインズの『貨幣論』が有名ですね。同時代のホートリーやロバートソンなども内生的貨幣供給に言及していたりします。カレツキなんかもそうですね。
 それで、いよいよポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論です。カルドアやムーアなどは水平派(ホリゾンタリスト)と呼ばれ、レイやポーリンは構造派(ストラクチャリスト)と呼ばれています。
 まずは、カルドアから。カルドアは、〈「安定的貨幣関数」に関する経験的発見への説明は「貨幣供給」が「外生的」ではなく、「内生的」であるということである〉と述べています。その根拠は、中央銀行の最後の貸し手としての機能です。つまり、〈貨幣当局が需要の変動に対して貨幣供給を一定に維持する力は信用貨幣に基づく貨幣的システムが中央銀行が信用のピラミッドが保たれるように保証しようとする限りにおいてのみ機能しうるという事実によって厳しく制限されている〉というわけですね。
 ですから、カルドアの理論においては、貨幣には外生性はなく内生性だけだということになります。ちなみにムーアは、貨幣供給の内生性について曖昧なところがあるようです。この水平派の考え方に対し、構造派が噛みついたわけですね。
 レイは中央銀行の役割について、〈連邦準備銀行は活発な役割を果たし、価格と量的制約の組み合わせを用いている。そしてこのことは連邦準備銀行は価格制約だけを用いて、受動的に準備需要を供給していると論じているムーアの立場とは矛盾する〉と述べています。つまり、〈現実には銀行と連邦準備銀行は活発なプレイヤーである〉わけです。
 他にもレイは利子率について、〈中央銀行はもし幅広い金融資産の流動性を保証するならば、利子率の制御を失うであろう。しかし、そのような保証は競売型市場の維持に必要である。中央銀行は利子率を決定出来ないが、それに影響を与えられる〉とか、〈短期利子率は完全には市場決定的ではない。というのは、多くの信用は既存の顧客にのみ給与され、信用割当は通常の場合であるからである〉と述べています。このことは、〈銀行は受動的に需要に応じて貨幣を供給しているのではない〉ことを意味しています。
 一方ポーリンも、〈利子率決定はもっぱら中央銀行によって開始され、制御される一方向の過程ではない〉と述べ、利子率の外生性を否定しています。
 ポーリンは他にも、〈中央銀行が完全に内生的に貨幣供給している場合には、負債管理を行うインセンティヴが生じない〉ことを指摘しています。銀行は単に受動的に貸出に応じている存在ではないのです。
 レイは水平派のアプローチについて、〈順応的でない中央銀行が存在するどんな経済にも適用不能である〉という批判を行っています。つまり構造派の立場では、〈貨幣供給関数は民間の借り手、貸し手、中央銀行の行動の複雑な相互作用である。中央銀行は貨幣的政策を実行するために量と価格の制約の組み合わせを用いる〉と考えられているのです。もちろん、量的な制御には限界があることは言うまでもありません。
 内藤は、〈現実の貨幣供給の過程においては、ストラクチュラリズムが主張するように、特に中央銀行は準備供給に対してある程度の量的制約を課すことが可能であり、外生的な側面は存在する(Chick and Dow, 2002)。こういった点を考えれば、貨幣供給が内生か、あるいは外生かは必ずしも、最も重要な論点ではないであろう〉と述べています。貨幣供給には内生性も外生性もあると言ってよさそうです。
 レイは、カルドアよりも銀行の機能を幅広くとらえているのです。そのため、最後の貸し手としての機能は金融システムの維持のために緊急時には必要ですが、金融システムの動揺を防ぐ役割でしかなく、むしろリスクの高い行動を銀行がとることを可能にしている面を強調しているのです。
 水平派は銀行の行動の内の貸出だけに焦点を当てており、構造派は銀行が積極的に利潤を求めて日々活動を行っている点を考慮している点も重要です。中央銀行も完全に受動的に準備を供給しているわけではなく、場合によっては量的制約を行っているのです。
 ちなみに、構造派には「構造的内生性」という概念もあり、これについても個別に論じる必要があるのですが、長くなるのでここでは置いておきます。
 これらの経緯があるため、内藤は内生的貨幣供給論について、〈この理論は、マネタリズムに対抗する形で登場したため、貨幣供給の内生性を強調しているが、信用貨幣を中心とした理論であり、その意味では信用貨幣論である〉と述べているのです。ここの「貨幣供給の内生性を強調」という点について、慎重に言葉を用いているなと感じられますね。

 

コメント(1)

僕も内藤敦之氏の『内生的貨幣供給理論の再構築』は読みました。

〈現実の貨幣供給の過程においては、ストラクチュラリズムが主張するように、特に中央銀行は準備供給に対してある程度の量的制約を課すことが可能であり、外生的な側面は存在する(Chick and Dow, 2002)。こういった点を考えれば、貨幣供給が内生か、あるいは外生かは必ずしも、最も重要な論点ではないであろう〉

これはたしかにその通りです。実は現日銀副総裁の岩田規久男もその著作の中で「貨幣の供給は銀行の信用創造に依存する」ということを述べています。そこからリフレ理論に飛躍するのは理解不能ですが。

内生的貨幣供給論を「貨幣供給の内生性を強調した信用貨幣論」と呼ぶことができるなら、外生的貨幣供給論は「貨幣供給の外生性を強調した信用貨幣論」と呼ぶこともできますね。

信用貨幣を前提にするなら、外生か内生かは最重要ではないということなのでしょうね。

もっとも、外生的貨幣供給論を基にした政策の多くは信用貨幣について多くを考えていない気はするのです。

個人的にはそこが気になります。

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