映画『永遠の0』見に行きました。

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 映画『永遠の0』を見に行ってきました。

 公開二日目ということもあり、かなり混んでいました。二人で見に行ったのですが、横で隣合う席が取れず、縦で近い席しか取れなかったです。相手を前の席にして、後ろに自分が座って、どんだけ泣いても大丈夫なように配置。う~む、我ながらずるいな(笑)

 原作者のお墨付きということもあり、不安はなかったのですが、予想以上に素晴らしかったです。原作はけっこう長いので、映画化に際して切るべきところは切って、じっくり魅せるべきところは魅せているなと感じました。

 ヤクザのじいちゃんが格好良すぎる。若い頃も格好良すぎる。

 それぞれの役者の演技が美事でした。

 原作を読んだときも泣きすぎて頭がおかしくなったのですが、映画版も泣きすぎて見終わったときに頭がぼ~~っとしてしまいました。もうね、零戦の映像だけで泣けてくる。見る前に、水分補給を忘れずに、って感じですね。

 本作では、ごく一部の人物を除いて、登場人物の言葉の一つ一つが重いのです。宮部を臆病者と罵る人たちの言い分も分かるわけです。志気にかかわるっていうのも、言い分としては理があるわけです。だからこそ、それぞれの言葉にぐっと来るわけです。

 やっぱり、大東亜戦争時までの日本人って、本当に凄まじかったと心底思うわけです。もの凄い時代だったわけです。正直、あの時代を生きて死んでいった方々を想うと、自分なんてどうしようもないなぁとしか思えないのですよね。

 そういった観点からも、安易にあの時代の日本人を貶める意見って、嫌な感じを強く受けてしまうのですよね。それは左翼やサヨクに限らず、保守派と呼ばれるような人たちについてもそうなんですね。負けたことや悲惨な結果になったことをあげつらって、今の安穏とした状況の上で批判しているような奴って、単純に嫌な感じが抑えられないんですよね。そういう奴に限って、自分はかなりぶっ飛んだ論理を平気で使ってくるありさまですからね。最低限、綿密な論理を組み立てた上で批判するべきですし、それにしても、時代状況は加味してしかるべきです。現在から批判するのって、実に簡単ですからね。後付の知識で言えてしまえるわけですし、手に入る情報量も桁違いなわけですからね。

 あと、明治維新や大東亜戦争という時代状況を思えば、現代の日本ってかなりのイージーモードなわけです。もちろん、デフレや中国の脅威などはありますが、当時と比べるならそれほど絶望するような状況でもないと思うわけです。ですから、一部の保守派のように絶望を煽る意見って、私は与し得ないのですね。それは、たいした状況でもないのに深刻にわめき立てるのは単に醜いという簡単な理由からですね。

 やはり私は、ヨハン・ホイジンガのように、本当に絶望するしかないような状況においても、希望を語るべきだと思うわけです。

 

【ホイジンガ『朝の影のなかに』より抜粋】

 希望をもちうる根拠はどこにあるか。救いはどこからくるか。救いをきたらしめるにはなにが必要か。
 ごくあたりまえの、すぐ手近の、いうなれば平凡な理由からして、わたしたちは希望をすてないのである。

 

 堕落か救済か、予想をどちらに立てるべきか決しかねるというのであるならば、希望をもつことこそ、人間としての義務であろう。

 

 少なくとも、『永遠の0』を見てきた私の胸中に湧き上がる見解は、「世界史は終わらず、まだ物語は続いていく」というものです。それは、まがうことなく、絶望などではなく希望と呼ばれるものなのです。

 希望をもつことは人間の義務であり、物語を紡ぐことは日本人の義務だと私は思うからです。

 

 

PS.
 原作で登場した嫌な朝日新聞記者は出てきませんでしたね(笑)
 代わりに、嫌な感じの主人公の友人と合コン相手が出てきましたね(笑)
 嫌なやつらの演技も、嫌な感じが出ていてうまかったですね(笑)

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