保守を論じることの危険性

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 少し前に、ASREADに【保守主義の陥穽】という記事を投稿しました。

 このアイディアそのものは、実は十年以上前からありました。

 ですから、それほどの長い間、私の心の中に眠っていたわけですが、その間誰も論じなかった問題でもあります。

 これって、けっこう恐ろしいことなのですよ。


 この記事では、キリスト教と保守主義について、ともにある観点から抉っています。

 ぶっちゃけた話、私はこの記事の内容について、キリスト教徒からの苦情が来ることはまったく考えていません。文句が来るとしたら、保守派からだろうと考えています。


 そのため、自分を守るための仕掛けが必要になります。このようなタイプの記事を公表するとき、私は罠を仕掛けています。自分の身を守るための罠ですね。

 今回も、それに引っかかっている人がいるみたいですけどね(苦笑)


 私は、質問があればできるだけ丁寧に答えたいとは思っています。限度はありますけどね。あと、単なるミスにも寛容でありたいとは思っています。あまりできていないですけどね。

 しかし、卑劣な手段を使ってくるやつには、容赦する気はありません。卑怯な手段とは、人が言ってもいないことを言ったかのように改ざんしたりすることとかですね。そういった卑劣な手段を使うやつって、けっこういっぱい沸いてきていて、うんざりしてしまいます。


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