『ことばの闘い』「倫理の起源53」についての議論(1)

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  【小浜逸郎・ことばの闘い】の「倫理の起源53」(2014年11月25日掲載)について少々。

 この論文では、愛国心について考察されております。

 愛国心についての考え方において、私と小浜氏では見解が異なるように感じられます。

 以下、違和感を覚えた箇所です。

 

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 一般に国民生活における欲望や関心は極めて複雑多様である。その錯綜した状態をまとめ上げ、必要に応じて一つの結束をもたらすために必要なのは、ひとりひとりの心に愛国心を植え付けることであるよりも、ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである
「愛国心」の必要を訴える感情的保守派は、しばしば身近な者たちや郷里への愛からそのまま地続きで、国家のようなより超越的なレベルの共同性への愛につながっていくことが可能であるかのような論理を用いる。しかし残念ながらこれは欺瞞的なお題目というほかない。というのも、じっさいにそうしたつながりを保障する具体的なステップがそろっており、小から大に至る経路が明らかにされていないかぎり、そうした主張は、単なる党派的な幻想による感情の強要に終わるほかないからである。
 国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つ。この機能的かつ合理的な統合性は、「愛国心」のような感情的なものに依存することによって保証されるのではない(それはしばしば実存や個体生命と矛盾するために道を誤らせることがある)。身近な者たちへの愛が損なわれることのないような社会のかたち(秩序)をいかに練り上げるかという理性的な「工夫」によって保証されるのである。その工夫のあり方のうちにこそ、国家の人倫性があらわれる。いささかレトリカルに言えば、国民が国家を愛することが要求されるのではなく、国民を愛しうるような国家を存立させることが要求されるのである。

 

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 違和感に対し、次のようにコメントで質問しています。 

 

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「倫理の起源53」を読ませていただきました。

私は小浜さんとは、異なる見解になります。特に、〈ひとりひとりの心に愛国心を植え付けることであるよりも、ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである。〉という箇所についてです。

私は、愛国心を植え付けるような教育は、ある程度は必要だと考えます。ちなみに私自身は、愛国心はそれほど強くはないですが、それほど弱くもない人間です。

私と小浜さんの見解の相違は、おそらく前提となる世界観の違いに由来するのだと思われます。相違を明確にする意味でも、一つ質問させてください。

小浜さんのようなやり方ですと、自分たちに都合の良い公共事業は賛成しますが、自分たちに利益のない公共事業には反対するような人間が出来上がるような気がします。そのような人間たちが集まった社会が理想だということでしょうか?

ちなみに私は少しだけ愛国心があるので、私にとってはメリットがない(そして税収などでデメリットが発生したとしても)辺境の地域への公共事業に(程度問題ではありますが)賛成します。 

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 何らかの返信をいただけるようでしたら、「倫理の起源53」のコメント欄に書きますし、反応がないようでしたら、本サイト上でのみ論じていくつもりです。

 また、あまり質問しすぎるのも迷惑になると思いますので、今回の件がひと段落した後は、自重するつもりです。 

 

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