西部邁の自裁死について

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 保守思想家の西部邁さん死去のニュースが流れてきました。

評論家・西部邁さん死去、多摩川で自殺か 78歳...遺書のような文書も

評論家・西部邁さん死去 多摩川で自殺か 78歳、正論執筆メンバー

「俺は本当に死ぬつもりなんだぞ」 妻の死から思索深め...


 生前の著作を読んでいた方々はすでにご存じのことでしょうが、人生の最期に自殺することは、西部邁さんにとって計画的で理性的な判断だったのです。来るべきときがやってきて、西部さんは自身の言葉に責任をとったということです。それを首尾よく行え得たということで、生涯を通して筋を通した人生だったとまとめ得るでしょう。
 本物の思想家の美事な最期でした。西部邁さんの死を語るのに、彼の生前の言葉以上のものを私は持ちえません。ですから、西部邁という男の残した著書から関係すると思われる箇所を紹介してみることにします。


『死生論』より
 私のいまの意識状態に脈絡があるとしたら、それは「精神は肉体よりも高次元にある」という仮説にもとづいている。その仮説を好むと好まざるとにかかわらず押し通さざるをえないのが人生である。となれば、それは死に方の選択にまで影を落とさずにはいない。自分の死を意識しつつ死ぬこと、それが人間に本来の死に方であり、その最も簡便な形が「自殺」ということなのである。



『妻と僕』より
 死すべきときに、とるべき方法で死ぬ、それを僕は「シンプル・デス」(簡便死)とよんできました。僕がそう考える人間だということをよく理解するほどに、Mは僕の面倒を看つづけてもくれました。


『ファシスタたらんとした者』より
 かくてこの一粒の粟にすぎぬこの男の老年には、いかに簡便に死ぬか、という課題だけが残されることになる。自分の人生を悲観しているのではまったくない。モダンの社会でアウトサイダーにしかなりようのない人間の人生は、まあ、こんな結末に至って当然と明るく諦観しているにすぎない。


『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』より
 述者が病院死ではなく自裁死を選ぶとしたら、それは、自裁死のほうが、自分の内なる臨死意識と外なる瀕死環境の両面からみて、自死もまた社会へ迷惑をかけること必定と知りつつも、当然と思われるからにほかならない。


 



 西部邁さんは、多くの言葉を残しました。彼の残した文章を尊重し、彼は天国へ行ったわけでも、地獄に落ちたわけでもなく、無になったのだと思います。ですから残された者として、彼の残したものから救うべき何かを救い、自身の人生をもって実践していくことが課されています。

 戦後日本において、数少ない本物の思想家の偉大な振る舞いに敬意を表し、黙祷を捧げます。


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