永井均さんのツイートより。
しかし、これはべつに政治に限ったことではないだろう。他にはどんな例があるだろうか。そして、この差異の本質は何か。
-- 永井均 (@hitoshinagai1) 2017年12月6日
西部邁さんの思想はこの意味で政治的だった。「実は私は死ぬわけはないのだ。「私」とは「言葉としての私」なのであり、その言葉を支えているのは伝統である。そしてその伝統が不滅なのであるから、私は死なないし、死ねないのである。死ぬことができるのは単なる生命体としての私である。」
-- 永井均 (@hitoshinagai1) 2018年1月23日
その通りだと思います。ただし、『学問』という著書で西部さんが、「 自己意識のなかで個的かつ私的な側面でいえば、死とともに、自分の感情も自分の意見もすべて消失する。「個私」の意識によってとらえられた世界が忽然と姿を消す。そうとしか考えられないのが、私という個の、生から骨(つまり死)への変化ということである。」と言っていたことも考慮しておくべきでしょう。私的で個的な面を考慮したうえでの、政治的な意見表明だったわけです。
ちなみに、私の生存期間と重なるという意味での同時代人で、知性において圧倒的な感銘を受けたツートップが、西部邁さんと永井均さんです。タイプはまったく違いますが、どちらにも惹かれます。
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