「S意見についての回答(4)」からの続きです。
S氏は、永井について、「ガキンチョでも直感的に理解していることを、弟子たちに曲解させた「人類史レベルの馬鹿」なのかも知れないぜ。」と述べています。
この一文には、S氏というよりも、この議論を見てくださる方の参考になる二つの論点があると思います。
一つ目は、「ガキンチョでも直感的に理解していること」に対する軽視があるように感じられることです。はっきり言っておきますが、子供が直感的に理解していることを、直観ではなく論理的に突き詰めたいという欲求は、めちゃくちゃ重要です。もっと言っておくと、子供が抱く単純な疑問を、徹底的に考えて、直観ではなく、議論を深めて考察していくという営みこそが、思想や哲学を深化させる大いなる原動力となってきたのです。
例えば、「1+1=2」が何故成り立つのだろう? という素朴な疑問は、空集合の集合が~などの高度な思考を生み、集合論などの数学の基礎理論へと到達することになるのです。
二つ目は、端的に、他人を侮辱する者には立証責任が伴うということです。S氏は、永井の曲解により、「人類史レベルの馬鹿」なのかも知れないぜと言っています。それなら、S氏には、永井が「人類史レベルの馬鹿」と言えるほどの曲解を犯していることの証明が求められます。ごくごく当たり前の話です。あと、「弟子たち」って、誰を指しているのでしょうか?
私の見解を述べておくと、S氏が永井の曲解を証明することは不可能だと思います。
ちなみに、永井哲学を深い部分で理解している者には自明でしょうが、私が書いた『永井均の『悩みのレッスン』で哲学する。』は、永井の独在論の本質的な部分に傷一つ付けていませんから。念のため。
さて、次は、S氏が天才について論じたところに言及することで、なぜS氏が永井を天才と思えないのかを、構造的に解明していきたいと思います。
S意見についての回答(6)へ続く。
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