『表現者54』の感想を以前に書きました。
http://nihonshiki.sakura.ne.jp/book/2014/04/54.html
デカルトの「我思う、故に我あり」について、少し論じていますね。
Amazon にも同じものを書いています。
http://www.amazon.co.jp/review/RTBWMF0C0IB3M
そこに、大谷明彦さんという方がコメントをくださいました。
ひとまず、一度は回答しておきます。
> 「我思う、故に我あり」という視点とは別の視点を設定する・・
> という言葉に大変興味を覚えたのでお教え願いたいのですが、
> これは「他者」から見た視点ということでしょうか。
『「他者」から見た視点』というより、『「他者」の存在を認めた視点』です。
簡単に言うと、「私も他人も同じ人間(より厳密には存在者)なのであって、
生きていたら考えることができるし、死んだら考えることができない」と見なす視点のことです。
> 私はいままで「世界」は「我=自分の意識」の周りに
> 存在するものとばかり思っていましたが、
> つまり「我なし」は私にとって全世界の存在を否定する言葉となる訳ですが、
> そうなると「我なし」の視点が意味のあるものとは思えないのですが。
『「世界」は「我=自分の意識」の周りに存在するもの』という視点に立てば、
『「我なし」の視点』は無意味になります。
その視点とは別に、『「世界」は「我と他者の意識」によって存在するもの』という視点に立てば、
『「我なし」の視点』は有意味になります。
> そもそもー死は「思う」こと自体を消滅させますーという
> 文章自体が私は信じられないので、
> 「死」は単なる肉体の死であって意識は死なないと信ずる者であります。
『信ずる者であります』とありますが、
私は哲学論議なら受けますが、宗教談義をするつもりはありません。
哲学では、「何を信じるか」という主張ではなく、
「どう考えざるをえないか」という文脈に沿った議論が重要になります。
大谷さんが自分の信じるところを述べるなら、
なぜ、そう信じざるを得ないのかをできるだけ綿密に客観的に論じてください。
単に好みの問題でしたら、私は議論するつもりはありません。
> もし他者に視点を設定するとしても設定した時点で、
> 設定すること自体が「我あり」、
> つまり私の視点になってしまうのではないでしょうか。
『「世界」は「我=自分の意識」の周りに存在するもの』という視点に立てば、
その通りです。
その視点に立つものが、
『「世界」は「我と他者の意識」によって存在するもの』という視点に立つには、
論理的な飛躍が必要になるわけです。
以上
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