『ことばの闘い』「倫理の起源53」についての議論(2)

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 小浜氏の「倫理の起源53」について、前回の(1)の続きです。

 私の質問に対し、小浜氏が返信してくれましたのでご紹介いたします。


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コメント、ありがとうございます。

ご質問にお答えします。

ことは、愛国心教育の有効性いかんをめぐっていますね。
まず、この議論に踏み込む前に、私がこの記事の文章で、次の2点を論じていることをご確認ください。

①近代国家の複雑な構成は、素朴な愛郷心や日本が好きだという感情のようなものとなかなか順接ではつながらないこと。

②国家秩序が平穏に保たれていればいるほど、一般民衆の日ごろの生活意識の中に、「国を思う」といった感情は浮上しにくいこと。

さて愛国心教育の涵養を訴える多くの人たちは、①の難しさに思い及ばず、「故郷の山河」への思いや、昔の日本人にはこんなに偉い人がいたという情報や、日本が好きだという感情があれば、それを出発点としてだんだん積み上げていくことによって、国家としての日本の将来を本気で(冷静に)心配する意志や行動力が具体的・持続的に身につくかのように考えています。民衆というものの長年の観察からして、私はそのようには思えません。それは残念ながら②のようなあり方が実態だからです。

木下さんは、おそらく愛国心という言葉を、理性的な公共心という意味で使っていらっしゃると思うので、その点で共通了解が得られれば、私も愛国心教育の有効性を認めるにやぶさかではありません。しかしそれにしても、「教育」というのはとても長くかかり、方法も確定しがたく、しかもその結果の検証が困難であるという難点はどうしても残ります。

私はそういうおぼつかないものに過度な期待を寄せるよりも、たとえば日本の外に出ていってみて初めて日本の素晴らしさがわかったとか、私生活に直接影響を及ぼすことがわかる形で内外の危機が意識されるような異変があったとかいった経験的な契機のほうが有効だと思います。現に前者は最近じつによく耳にしますし、民主党政治の体たらくや、中国の尖閣諸島への侵略圧力や大震災などによって、眠っていた国民意識が一気に高まった、などは後者の例です。

さて、肝心のご質問内容についてですが、以下の私の記述は、たしかにやや舌足らずであったかもしれません。補足します。

≪ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである。≫

この場合の「自分たちの生活の安寧」という言葉ですが、この「自分たち」という言葉には、特定の個人・団体ではなく、日本国民全体という意味を込めているつもりでした。ルソーの言う「一般意志」に近いものがあります。したがって、そこには、あらかじめ「多少とも公共精神を尊重する人たち」という条件が織り込まれています。

この条件が織り込まれていれば、自分の税金が自分の私的利益に直接は還元されない形で(例えば過疎地への公共事業のような形で)使われても、それが日本国民全体の安寧に寄与するなら進んで承認するということになります。そうして、もしそういう承認の態度が、巡り巡って、結局はこの日本で生きていく自分にとってもよいことなのだと(最大多数の)国民に理解されれば、よい統治が実現したことになります。これは理性的な国家的人倫のあり方を説明するものであって、普通解釈されているような「愛国心」という感情的ニュァンスの濃厚な言葉によっては、うまく説明できないことだと思います。

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 いかがでしょうか?

 私は、正直なところ、かなり違和感を覚えました。

 ここで新たな論理が示されましたので、それに対し、何らかの回答をします。

 

 ただ、少なくともここにはまともな議論が展開されているとは言えると思います。

 その議論を通じて、意見が収束すれば素晴らしいですし、収束しなかったとしても、それぞれの考え方の違いが明確化され、見ている観客に利する何かが生まれるのではないかと期待したいところです。


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