昨日の続きです。
【小浜逸郎・ことばの闘い】サイトの「倫理の起源58」について、質問を書き込みました。それに対し、小浜さんが回答してくださいました。
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ご質問、ありがとうございます。
質問1ですが、林氏の奥さんの話、それを聞いた当時の林氏が抱いた印象、さらに私に向かって語った時の林氏の考え方など、何重にもクッションが入っているので、私の口から確たることは言えません。ただ、文章から推測すると、これはいとこさんが自分で述べたのではないでしょうね。
質問2にまたがってお答えすることになりますが、林氏は、当時の身辺の状況と世間の雰囲気とを感覚的によく記憶しており、その記憶に従って「志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない」と語っているのでしょう。「全然ない」という表現は、たしかにやや極端に聞こえます。ただこれは、小林氏のように戦争を知らない人がとかく特攻隊精神を美化する傾向がありがちなのに対する強い警告の気持ちから出た表現だと思います。話し言葉の勢いということもあるでしょう。
いずれにしても、肝要なのは、当時の特攻隊要員の誰もが、自由意志による選択に基づいて「志願」したとはとても言えないのではないかということです。その点で私は、林氏の述懐に賛同するのです。
そもそも平和時においても、個人には自由意志による行動選択の余地など意外に少ないと私は考えています。ましてあの時代状況の中では、「志願」という形を一応とりながらも、半ば強いられてそうせざるをえなかったというのが実態ではないでしょうか。ここで、強いられるというのは、単に上官の命令に服従するという意味ではありません。本文中で、「一応志願という形を取りつつ、状況の切迫と上層部の圧力と同志からの脱落を潔しとしない仲間意識とが、若者をして「志願」にマルをつけさせざるを得ないような力としてはたらいたのである。」と書いた所以です。
以上、お答えになりましたでしょうか。
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回答ありがとうございます。
質問に対する回答をいただいたので、次は私の見解を述べる段階になります。
PS.
ASREADに小浜逸郎氏の【『永遠のゼロ』を私はこう見る】が掲載されていますが、その中で私の昔の記事【「永遠の0」にとんでもない難癖をつけてしまった京都大学大学院教授】に言及があります。
小浜氏の記事に対して、私なりの回答をすでにASREADに投稿しています。いつ掲載されるかは分かりませんが、掲載されたら宜しかったら読んでください。
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