昨日の続きです。
私の使用した「本物」という言葉に対し、eeggeさんという方が〈「倫理の本質」を知る「本物」〉だと考えているようなので、そのような意味ではないですという回答をします。
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eeggeさん、コメントありがとうございます。
回答させていただきます。
> 木下さんのこの問を、「倫理の本質」を知る「本物」がいるのか、
> と解するならば、非常に重たい議論になってきます。
私が使用した「本物」という言葉は、そのような意味ではありません。
簡単に説明させていただきます。
藤井聡の『永遠に「ゼロ」?』では、架空の物語の登場人物の行動を、家族そろって大爆笑する場面が出てきます。これは、実際の類似例(復員軍人と戦争未亡人の再婚など)についての嘲笑にもなってしまいますので、人の道に外れた行為なわけです。
人間ですので、間違いを犯すことは往々にしてあるものです。問題は、間違いを犯した後の行動になります。そのとき、どのような仲間がいるのかが重要になってきます。
仲間や尊敬する人物が間違ったことをしたとき、それを注意するのは難しいことです。しかし、その難しいことができないのなら、そんな思想に何の意義があるのでしょうか?
小浜逸郎氏は、『Voice』特別シンポジウム「2015年の安倍政権を占う」で藤井聡と対談しています。にもかかわらず、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉と書いておられるわけです。私に賛成しても、小浜氏にデメリットはあっても、メリットはまったくないわけです。ですから、私は小浜氏を「本物」の批評家だと本記事で述べているのです。
藤井のメチャクチャな意見に対し、間違っていると言えないようなら、そんな人たちは「本物」ではない(と私には思える)ということです。真正保守ごっこを勝手にやってろと思うだけです。
倫理については、私は「言ったらおしまい」とは考えてはいません。
私は、「言い切ったらおしまい」であって、「言い続けなければいけない」ものだと考えています。つまり、議論しあって、間違っていたら修正すべきものだということです。
ユダヤ教やキリスト教などのように、絶対神の言葉を出してくる思想は、少なくとも私にとってはあまり上等だとは思えないのです。
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つまり、私のいう「本物」の基準は、まともな議論ができるかどうかということにかかっているのです。
私は思想をしたいと考えていますが、新興宗教の信者になるつもりはありません。
教祖を批判できないような人たちと、付き合うつもりはないのです。
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